ところが日本では金太郎の話が坂田金時に直結したようだが、そういう例の方が稀有であり滅多にそういう例は見られないということ。つまり言い換えると日本では中国に比べて昔話と歴史との間に妙に距離があるということができるだろう。 ではこの話であり話し方の狙いが何かと言えば、我々は恐らく正直であること、そして寡欲であるというあくまでそうした前提での内心を明らかにしたうえで生きていれば必ずいいことが起こるという希望であり願望を知らず知らずのうちに抱かされているのではないかということではないかと私は指摘したい。正直じいさん側であること、あるいは少なくとも意地悪じいさん側でないことによって我々は己の位置を大体把握する。そしてそれが何かってよりよい未来に繋がるという願望を我々はこうした話によって刷り込まれているのではないか。そういう意味での昔話的な意味における現実の捉えなおし作業というのは恐らく我々の無意識下