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ブックマーク / call-of-history.com (15)

  • 分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
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    ruinous 2015/07/29
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
  • 「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著

    幕末に日を訪れた外国人が驚いたことの一つに、日人がひどく酒癖が悪いというものがある。例えばヘボン式ローマ字で知られるヘボン(日在住1859~92)は昼間っから酒を飲んで酔いつぶれ、あるいは大暴れしている人びとの多さに驚き、また酔って仕事もままならなくなる日人家事使用人たちに悩まされている。せめて仕事中ぐらいは酒を飲まない労働者を雇えないかと日人商人に尋ねるが、そんな日人を見つけるのは難しいと言われて途方に暮れていた。他の外国人もすっかり出来上がった武士の姿に恐怖を感じている。昼間っから刀持った酔っぱらいが歩いているんだからそりゃ怖い。ヘボンに遡ること三百年、ルイス・フロイスも戦国時代の日人の酒癖の悪さを書き留めていて、もちろん欧米でも酔っぱらいは多かったものの、西洋人からは日人の酔い方は度を越して酷いと見られていた。 武士も町人も昼間っから酒を飲んで仕事もそこそこに、そこら

    「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著
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    ruinous 2015/06/03
  • 十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生

    オーストラリアで1850年代から始まった中国人移民排斥運動は、白豪主義として知られる白人至上主義的潮流を生み出し、1901年のオーストラリア連邦成立以降1970年代まで国家として非白人を排除する人種主義政策を続けることになった。 十九世紀半ばのオーストラリアで起きた中国人移民排斥の原因を、白人社会と中国人との文化的差異に求める見方は適切ではない。まずは当時のオーストラリアの社会構造がはらんでいた矛盾と急激に表面化した経済的要因があり、彼らが直面した問題を説明しうる理由として「中国人の脅威」を見出すようになったのである。 オーストラリアの植民地化オーストラリアの歴史は古くて新しい。先住民アボリジナル(アボリジニ)の祖先はおそらく四万年前にはオーストラリア南部に到達していたと考えられ、以後、西暦1700年代まで外部の侵入もなく独自のアボリジナル社会を形成していた。 1770年ジェイムズ・クック

    十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生
  • かつて、世界の至る所で「沈黙交易」が行われていたという

    世界史上、様々な地域でたびたび見られた商業形態の一つに沈黙交易というものがある。 十五世紀ごろ、西アフリカではマリ帝国の商人とニジェール地方の商人との間で以下のような取引が行われていた。 (赤坂憲雄著「異人論序説」P60) サハラからラクダに積んで運ばれてきた岩塩は、マリ帝国にはいると、長蛇の列をなした人々の頭にのせて金の産地まで送られる。ある水のほとりまで来ると、一行は岩塩を一列にならべておき、半日ほど来た道をもどる。金の産地の黒人は船で金を運んできて、交換をのぞむ塩の塊のわきに、それと見合う量の金をおいて姿を消す。塩をおいた側がもどり、そこにある金の量に満足すれば、金をとって去り、あとから金をおいた黒人があらわれて塩をとる。こうして、たがいに接触することも言葉をかわすこともなしに、塩と金との交換が成立したわけである。 あるいは日でも諸国の峠路の道中に中宿というものがあったと伝えられて

    かつて、世界の至る所で「沈黙交易」が行われていたという
  • 「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著

    1996年の発売以来売れ続けている世界史入門定番の一冊。砂糖の広がりを通じて様々な地域がつながりあい、ダイナミックに変化していくさまが平易なことばとわかりやすい解説で描かれており、世界史の面白さがこれ以上ないほどに詰まっているので、まぁ、読んでいる人の方が圧倒的に多いでしょうが、あらためて紹介しておこうという記事。 書とあわせて記事下に列挙した書籍を参考にしつつ、大まかな砂糖を巡る歴史を概観しておこう。 歴史上、砂糖は西漸しつつ世界に広がった。砂糖の原料であるサトウキビはムスリム商人によってイスラーム世界の拡大とともに西へ西へと伝播し、十字軍によって地中海世界へ、スペイン・ポルトガルによって大西洋諸島さらに新大陸南米へ、イギリスによってカリブ海諸島へと広がりを見せる。この拡大の過程で砂糖は「世界商品」として人びとの生活に欠かせないものとなっていく。 サトウキビ栽培と製糖の特徴として、第一

    「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著
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    ruinous 2015/04/23
  • 「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著

    十六世紀初頭から十七世紀末にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家は強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続けた。フランスのように絶対主義体制の構築ができたわけでも、イギリスのように四方を海に守られていたわけでもなく、宗教戦争と度重なる国際戦争で疲弊し分裂した神聖ローマ帝国に、なぜオスマン帝国からの防衛が可能であったのか。その大きな要因として書は、ハプスブルク家における実証主義的政治の誕生を挙げている。 『書のテーマは単純で、オスマン帝国から国を守るという極限状況がハプスブルクに強いた、理想を追わず現実を直視するという心性が、十六世紀的な、世界を客観的、数量的に把握し分析するという技術と出会い、そこに強力な、説得力のある実証主義政治が生まれたというものである。脱魔術化しているという点において、この政治はすぐれて近代的な政治である。』(P229~230) この分析がとても面白い。もちろん、みん

    「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著
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    ruinous 2015/01/22
  • 「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」エドワード・ベラミー 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1888年に米国で出版され、「アンクル・トムの小屋」と並ぶ大ベストセラーとなった小説にエドワード・ベラミー(1850~1898)の「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」(原題:”Looking backward 2000-1887”)という作品がある。1887年から2000年のボストンへとタイムスリップした上流階級の男性が体験する113年後の世界を描いたユートピア小説で、知識人から大衆まで大ブームとなり、二十世紀に入っても「最も影響が深い二五冊の書物」としてマルクスの「資論」に次ぎ第二位に選ばれたという。 間長世による書の解説「ベラミー『かえりみれば』の現代性」によれば、エーリッヒ・フロムは書を評して『ベラミーのユートピアは、その根的要素のほとんどすべてにおいて社会主義のユートピアであり、多くの点においてマルクス主義的ユートピアであることは、ほとんど疑問の余地がないと述べて

    「かえりみれば――二〇〇〇年から一八八七年」エドワード・ベラミー 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    ruinous 2014/10/27
  • 「戦国自衛隊」半村 良 著

    映画はもう子供のころから何度となく観ていたけれど、原作小説は読んだことがなかったという作品の一つだったのだが、ついに読んだ。やはり日SF黎明期を代表する一作で、1971年の発表直後からベストセラーとなり、戦国時代へ自衛隊がタイムスリップして大活躍というプロットは多くのフォロワーを生んで、歴史改変SF、架空戦記小説ブームの火付け役となった。軽い気持ちで読み始めたのだけど、実は適切な軍事考証、歴史考証がなされ、かつ、きちんとエンターテイメントの王道行くので凄く面白いのだ。 魅力の一つには軍事考証へのこだわりがある。映画だとさくっと一小隊がタイムスリップするのだが、小説ではタイムスリップに至る米軍・自衛隊合同演習に向けた各方面軍の展開が描かれ、主人公たちの部隊がどのようにタイムスリップの現場へ終結していくかが描写されている。この辺、ミリタリーファンにはたまらないのではないだろうか。 最初の出だ

    「戦国自衛隊」半村 良 著
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    ruinous 2014/10/15
  • 「大学教育について (岩波文庫)」ジョン・スチュアート・ミル 著

    近代自由主義思想に多大な影響を与えたジョン・スチュアート・ミルが1865年にスコットランドのセントアンドリューズ大学名誉学長に就任したとき大学教育の普遍性・重要性について長々と語った就任演説の翻訳。なんでも二時間(または三時間という説も)語り続けたというから、お疲れ様である。しかし、このスピーチの草稿執筆のために就任を一年延ばしただけあって、当時の大学教育、とくに一般教養を学ぶ意義について、時代を越えて響いてくる内容になっている。 とはいえ、150年前のこと、当時と現代とでは大学の置かれた状況は大幅に違うし、各種学問分野も比べ物にならないほど格段の進歩があり、「大学教育について」というよりは「学ぶことについて」あるいは「教養について」という方が的確かもしれない。しかし、確かに個別的に各学問について語った内容は時代性を反映しているものの、そのスピーチの質は今でも普遍性を持っていると思う。

    「大学教育について (岩波文庫)」ジョン・スチュアート・ミル 著
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    ruinous 2014/09/27
  • 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

    スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入

    1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
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    ruinous 2014/09/27
  • 「神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)」ピーター・H・ ウィルスン 著

    「神聖ローマ帝国」は実に茫洋としている。ヴォルテールが評した有名な「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国でもない」という言葉の強い印象もあって、とらえどころがないイメージをさらに強くする。欧州史を調べていても、そのときどきの神聖ローマ帝国にまつわる様々な事件については理解できても、なんとなく「神聖ローマ帝国」そのものについてはあまり理解できているとはいえない。 それはドイツの研究史でも同様なようで、どうしてもプロイセン中心史観が長く歴史学の主流であったため、神聖ローマ帝国の時代を断片的な支配力と政治権力の分散によって国家統一を遅らせた停滞の時代という捉え方がされがちだった。戦後、このような捉え方は大きく見直されて実証的な研究が進んだが、それでも神聖ローマ帝国について十分に研究されてきたとは言えないようだ。しかし、現時点で明らかになっている「神聖ローマ帝国」とは何だったのか?

    「神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)」ピーター・H・ ウィルスン 著
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    ruinous 2014/09/01
  • バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ

    ヴィッテルスバッハ家前史ヴィッテルスバッハ家はドイツの名門で、主にバイエルンを738年に渡って統治した王家として知られる。現在のドイツ南部一帯バイエルン州は遡ると六世紀、フランク人の部族アギロルフィング家の統治に始まり、八世紀、タシロ3世(在位:749~88)が小ピピンに臣従し、その後シャルルマーニュに反旗を翻したことで追放され、以後カロリング朝東フランク王国、ルイトポルト家などを始め、統治者が次々と入れ替わった。 ヴィッテルスバッハ家の統治下となるのは1180年。当時バイエルン公は勇名で知られたザクセン獅子公ハインリヒ3世で、獅子公はイタリア遠征を巡って赤髭王(バルバロッサ)こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位:1152~90)と対立、怒った皇帝は獅子公からバイエルンを取り上げて、ヴィッテルスバッハ家のオットーに下賜し、彼はバイエルン公オットー1世(在位:1180~83)となった。以

    バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ
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    ruinous 2014/08/29
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