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2008年11月11日のブックマーク (2件)

  • 生まれそこなった新世代としてのオタク|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自信のアウトソースは服オタの専売でも、近年の傾向でも、たぶん、ない。 ・服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由 - シロクマの屑籠(汎適所属) リンク先で指摘されている「自信の喪失⇒自己否定」という流れをみて、ぼくが最初に感じたのは奇妙な懐かしさだった。この手のアイデンティティクライシスの物語には見覚えがある。それはたとえば、こんな物語だ。その青年は有名一流大学を出て、有名一流企業に就職することを至上目標としていた。弛まぬ努力は実り、目標は叶う。彼にとって、「その企業にいる自分」がすべてである。自覚の有無に関わらず、だ。この場合、服オタにとっての贔屓ブランドは、学歴や所属企業に置き換えられる。しかも、時間をかけて手に入れた分、より取り返しのつかないものとして。 そういう感覚は、おそらく、その辺にごく普通にあった。価値観が多様化したといわれる現在でさえ、完全になくなったとは思えない

    sarabanda
    sarabanda 2008/11/11
    「エリートである自分をアイデンティティとしてきた人にとって、エリートであることの価値を否定されることは恐怖だろう」/高学歴非コミュは、就職活動の失敗によって一生ものの心の傷を負うことになる。
  • 日本人と「自分自身の内側の価値」について - シロクマの屑籠

    生まれそこなった新世代としてのオタク|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記 およそオタクに限った話ではなく、日人の大半は、「自分自信の内側の価値」なるものをあまり内在化させず、自信や価値やアイデンティティを外部にアウトソーシングしながら生きているような気がする。「自分が自分であることを確認できる何か」「自分に価値があると思えてくるような何か」を他者や物品やコミュニティに仮託することで、それで何とか自分自身の心の均衡を維持している。 なにも最近の日だけの話ではなく、かつて、[企業とモーレツ社員][地域共同体と村人]といった組み合わせのなかでも自然に行われてきたことと回想して、ほぼ差し支えないのだろう。日人は、近代的な西洋人(のステロタイプ)とは異なり、「自分自身の内側の価値」を凝集しなくとも、コミュニティや組織全体と半ば融合した形で、外側の価値を共有しながら生き

    日本人と「自分自身の内側の価値」について - シロクマの屑籠
    sarabanda
    sarabanda 2008/11/11
    「『自分自身の内側の価値』を埋め合わせる手段として他人が動員されるというのは相当な人間疎外で、これが酷い度合いで長く続けば、動員された側のメンタルに相当な負荷と傷跡を残すだろう」