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2010年4月19日のブックマーク (4件)

  • コミュニケーションのテンプレート - よそ行きの妄想

    残念ながら我々にはテレパシーは使えず、それ故意思の伝達を図る際には発信者は言語なりジェスチャーなりといった何らかのプロトコルに変換し、受信者はそれを解読しなければならない。 変換する際にも解読する際にも必ず漏れや過誤が出るから、真に正確な意思の伝達は不可能で、合意形成は実に困難である。 にもかかわらず、見ず知らずの他人との間で会話が成立するという奇跡のようなことが、何故日常的に起こり得るのか。 それは、テンプレートがあるからである。 テンプレートとは、既に形成された合意である。どういう表現をすると、相手がそれをどのように受け取るかという経験の集積である。 少し古いが「ウケる技術」という若干すべり気味のタイトルのこのは、まさに他人を少し笑顔にさせるためのテンプレート集に他ならない。 誰かを笑わせたい。これはつまり、「親しみ」の意思表示だ。 日常会話の大部分は「親しみ」の意思表示のために費や

    コミュニケーションのテンプレート - よそ行きの妄想
  • 少年野球に見る信仰と戒律 - よそ行きの妄想

    この間の土曜日の話。公園で野球の練習に精を出す少年たちを眺めていて思ったことを。 結構格的な練習みたいで、コーチみたいな人が時折怒鳴ったりしながら、守備練習などをしていた。最初は、子供なのに上手いもんだなあとか思って眺めていたわけだが、やけに厳しいコーチに対して段々腹が立ってきた。 少し自分語りさせていただくが、私は中学時代サッカー部だった。はっきり言ってプロになりたいとか高校サッカーでどうこうとか、そういうのはまったくこれっぽっちも考えていなかったが、ただなんとなく、Jリーグも始まったし*1、ボール蹴って楽しければいいかなと思って入部した。にもかかわらず、我が校のサッカー部はなぜか近所のサッカー好きの大学生かなんかをコーチとして招聘し、しかもそのコーチはこともあろうか我々をしごきだした。やれ筋トレだ、ダッシュだ、マラソンだと、それこそボールを蹴ってる暇もないほどに。想定とまったく違った

    少年野球に見る信仰と戒律 - よそ行きの妄想
    sarabanda
    sarabanda 2010/04/19
    「きっとここ、はてな村はスポーツ脳不在の社会なので、この違和感をある程度共有できるような気がしている」
  • 人生に対する根本的な「疲れ」

    火曜日、自宅の上階のおっさんにものすごい勢いでののしられた。家に怒鳴り込まれたのだ。私が上から騒音の被害を受けているのに、おっさんからすると、私の方がある意味加害者らしい。当に、酷い出来事だった。 そのときは泣きもわめきもせず毅然と対応したけど、酷い出来事が過ぎた後から、寝る前に一気にそのショックが訪れてきた。 今まで詰め込んできた疲れとかたくさんのあきらめとかそれまであった嫌なこととか悲しみとかそんないろいろと肩のこりや腰痛のように積み重なった澱みの感情に押しつぶされそうで、それに対して、何もできない自分も、そして、そんな思い出を受け入れることも消すこともできず後生大事に持つしかない自分も全てが当にいやでいやで、たまらなかった。 自分が無視してきたそれらすべてがあの罵倒してきたおじさんに集約されながら、自らの中で再生された感じで、一時的に自分の心と体と頭は連携がとれず全部ばらばらにな

    人生に対する根本的な「疲れ」
  • かつて文学部だったすべての現サラリーマンに聞いてみたい

    かつて文学部だったすべての現サラリーマンに聞いてみたい、あなたにとって文学、文学部とは何だったのかを。 高校時代、ハッピーエンドだと分かっているものしか読まない、という友人がいて、そんなの何がおもろいのかと、文学部志望の自称文学好きは心の中で思っていた。 大学入って出会った、知らなかった文学それらの解釈、文学に隣接するさまざまな学問、ほとんどすべての講義は面白く、バイトのない夜は好きなをかかえて図書館地下で耽溺してた。一冊の課題囲んだ勉強会とかも、しったかで、はったりで、でも精一杯調べて持論述べて、でも先輩にあっさり論破されて、でもこういうの話せるのってすんごい楽しーなオイと思っていた。 そして大学生活も終盤、研究者になるほど身を捧げて愛する分野もないし、知恵の対価として金を得るほど賢くもないと周りの秀才を見てつくづく悟って、卒論だけはいいもの書こうと思って朝から晩まで頑張って、あんま

    かつて文学部だったすべての現サラリーマンに聞いてみたい