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ブックマーク / chanm.hatenablog.com (7)

  • 自己欺瞞と覚悟 - 旧 はてブついでに覚書。

    なんかさっきテレビで、 過去の流行語を振り返っていた。 そのなかに”ぶっちゃけ”っていうのがあって、 これはまあ過去のでもないな、今もみんな使っている言葉だ。 私もたまに使う。 まあ、音いっちゃうとさ、、、でしょ??って意味。 絶望しやすい人は、 結構他人の自己欺瞞に参る。 君を尊重しているよと言いながら、そしてそう人も思い込みながら、 その実自分のことなんてまったくリスペクトしてくれていない他人の性に参る。 道徳心のある人が嫌いなのだ。道徳に従う人が。 善いことを、それが善いことであるという理由で行う人間が信じられない。 ぶっちゃけ、私のことなんか尊重してないでしょ? 音では、他人なんてどうでもいいでしょ? ところで私は、基的に他人なんかどうでもいい。 他の人がどうかは知らない。 ぶっちゃけていうとそう。 私はただただ、私の周りの人がご機嫌でいてくれることを願うが、 それはそれ

    自己欺瞞と覚悟 - 旧 はてブついでに覚書。
    semis
    semis 2010/01/20
  • はてブついでに覚書。 - 繋がりたい私の選択

    私という話をする時は、 どのレベルの「私」のことをお互いに話してるのかがほんとややこしくて、 こんがらがるので苦手。 公に対しての個という意味での私なのか、 何々ちゃんと私は違うというときに使う私なのか、 無私とかいうときのエゴとしての私なのか、 肉体としての私なのか、 感情や理性といったラベルのついた私なのか、 ゆえに我ありの根拠としての私なのか、 潜在意識とかいう私なのか、 魂とも言い換え出来そうな絶対的な私なのか、 ホルモンバランスがちょとアレになってたりしっかりだったりするときの私なのか、 恋は盲目の真っ最中の私なのか、 痴呆になっても精神に異常を来たしててもなお残る私なのか、 あといろいろ。 でも、だから面白いのかもね。 私という話をするときは、みんなのそれぞれの個性や認識がよく出るから。。。 今日のfinalventさんの一連のエントリをきっかけに 最近の自分にとって「私」と

    はてブついでに覚書。 - 繋がりたい私の選択
    semis
    semis 2008/12/11
  • テンプレと天然のあいだ - 旧 はてブついでに覚書。

    私は説教されるのは好きなんだけど、 私にリアルで「女とは」「母とは」を説教してくれた 大人の女性の方々は、 ほぼ全員テンプレ依存に見えた。 世代が固まってるわけでもなかった。 そういうことを説教したい人、っていうのはキャラが似ているのだみんな。 自分だって自分が語ってることに最初は反発覚えただろうに、 いつの間にかその抑圧をしっかり内面化してる。 「役割」についてはあれだけ語れるのに、 私に一つも、彼女達の人間性そのものへの尊敬は覚えさせなかった人たち。 ちょっと突っ込むと、5倍の逆ギレが返ってくる人たち。 お疲れ様です、という心からのねぎらいを込めて、素直に聞きつつ内容はスルーした。 そんなものを自分が引き受けたり、 あまつさえ次の世代に渡したりなどしたらいけない。 ごめんね。そこは断ち切らないと。 そういうことが出来る時代に生きる責任として。 それとは別に、尊敬できる部分があったら語ら

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    semis
    semis 2008/07/10
  • 人として報いる - 旧 はてブついでに覚書。

    ある組織の中で、この人が多少「報われる」といいなと 勝手に思っていたことがあって まあでもそれは組織の「システムの問題で難しい」し、 きっとこの人の積んだ「徳」は、 どこかで報われるのだな それはペイフォワード的なあれなのだろう、 と、その人の「善意」にそのまま乗っかっていた。 私に対して何かしてくれたなら私が返せばいいんだけど、 その人は組織に対して貢献していたので、 いまいち私からダイレクトに恩返し、というのは違う気がしていたのだ。 が、一向になんというか、「気配」がないので、 さすがに、罪悪感を感じて、 システムとしてじゃなくて、対人として 何か出来ないかということを思った。やっと。 で、働きかけるように、動いてみた。 で、まあ、少し前、 当に多少「報いる」ことが出来た。 明示的に、具体的に。 思いっきり焼け石に水だけど。 それが案外、自分にとってはすごい新鮮だったっぽい。 ほんの

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    semis
    semis 2008/06/30
  • 文系教授の恐ろしさ - 旧 はてブついでに覚書。

    お断り:えっと、100%主観の話をします。 大学に入ったとき、(文系の)教授たちの勉強量というのを 垣間見ることがちょくちょくあったけれど、 それを見て、ああ学問の世界に自分は無理、と 早速挫折した記憶がある。 理系は、他人に話を聞いてほしくばまず英語で書け、という 素晴らしい効率化がなされているけれど、 文系は、興味があるなら俺の母国語を勉強しろよ、 という世界である(わりと)。 で、その国の言葉を勉強すれば理解できるかというと、 んなこたーない。 行間というものがどの国の言葉にもあって、それを理解しないことには始まらない。 国際的に共通した術語の定義がされる理系と違って、 国ごとに概念の集合(たとえば”愛”が何を指すかとか)が違う自然言語を そのまま利用している、もしくはオリジナルに概念を製造しているので、 つまりはその国の文化や時代性を理解しないことには、「専門」として 語るまでにた

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  • 英語なあ。 - 旧 はてブついでに覚書。

    英語が母国語の人はうらやましいなあと思う。 アメリカ人とかさ、たまに日で「なんで英語の表示ないわけ?」みたいな態度になってたりするくらい(それはここが日だからだが)、 他国語に興味持たなくても余裕ぽんで生きていける。 インプットも英語アウトプット英語。 今日(昨日になっちった)は梅田さんが新潮社のフォーサイト誌サイトに連載されている『シリコンバレーからの手紙』*1を読んだ。 出だしから落ち込んだ(笑)。 五月三十一日、アップルが「iTunes U」というサービスを開始した。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、マサチューセッツ工科大学(MIT)など全米の大学の講義(音声、ビデオ)を無料配信するサービスである。ここ五年でアップルは、「iTunes」と「iPod」の組み合わせによって音楽に関するプラットフォームを押さえた。それと同じ仕組みを使って私たちは誰でも(その大学の

    英語なあ。 - 旧 はてブついでに覚書。
  • 今を救う何か。 - 旧 はてブついでに覚書。

    人の不幸のうちの大半は脳内に存在する、ということを、 で神経症の知り合いを持って学んだ。 その人の脳は悲しみと不安の製造機だった。 その人の毎日は、悲しみと不安で埋め尽くされていた。 でも、悲しみは、過去に対してのものと、他人に対してのもの。 でも、不安は、未来に対してのものと、他人に対してのもの。 自分には変えられないものを選択的に憂う脳を持ってしまったその人には、 だからいつでも、現在と、自分がなかった。 また、反面、現在であること、自分であることは、その人にとって恐怖だったので、 憂い続けるという状況を、その人が手放すことは出来なかった。 宗教は、未来の何かを約束したり、過去に意味を与えたりする。 いつか、救われる、 そう宗教は教える。 でもほんとに救われているのはその人の”現在”だ。 過去への悲しみと、未来への不安という”現在”が、信仰によって取り除かれる。 その信仰を持ち続ける

    今を救う何か。 - 旧 はてブついでに覚書。
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