ソ連で発生した飢饉は、しばしば全国規模の大災害に発展したが、その際に、ソ連政府の政策そのものが事態の悪化を著しく助長したことがあった。 ソ連時代最初の大規模な飢饉は、内戦の直後にこの国を襲った。内戦は、国内のあらゆる経済的結びつきを破壊し、大飢饉の主な原因の一つとなった。飢饉のもう一つの重要な理由は、1921年の深刻な干ばつであり、すべての作物の5分の1が損なわれた。
それは、北方民族の間では珍味とされているが、それ以外の地域の人が食べると翌日にも命を落としてしまう可能性がある。1970年代に実際にそのような事件もあった。 北方民族の伝統料理は、他の地域の人々にとってかなり衝撃的なものである。たとえば、トナカイの熱い血や濃厚な「血の」スープ、トナカイの胃の中にある未消化の内容物などを食べてみようという勇気のある人はそういないだろう。ではデザートにはどのようなものがあるのだろうか?実はデザートも、本当に好きな人でないと食べられないものである。北方のアイスクリームは、ベリー類で「味が整えられているものの」、セイウチまたはアザラシの脂身でできているのである。 しかし、北方のもっとも奇妙でもっとも危険な珍味といえば、コパルヒン(クィムグートとも呼ばれる)以外にない。子どもの頃から食べ慣れていないと、命を落としてしまう危険性のある代物である。 「嘔吐、意識喪失、肝
「なぜウオッカは…」「なぜプーチンは…」など、ロシアがらみで最も人気の検索語を選んでくわしく解説する「なぜロシアは」シリーズ。今回は、なぜ18~19世紀のロシアの上流階級は、ロシア語よりもむしろフランス語を多く話したのか? レフ・トルストイの大長編『戦争と平和』は、学校の履修プログラムで学ぶ、数ある文学作品のなかでも最大の難物であり続けている。が、それは全4巻という分厚さのためだけではない。「初めてこの本を開いてみたら、なんと初めのほうのページの約半分はフランス語で書いてあるじゃないですか!で僕は、これはあらすじを読んで済ましたほうがいいや、と思ったんです」。今23歳のモスクワっ子、アレクセイさんは、学校でのトルストイ体験についてこう語る。 実際、『戦争と平和』は、ペテルブルクの社交界の女王、アンナ・シェーレルのサロンでの会話で始まるのだが、冒頭の半分はフランス語だ。これは作者の思いつきで
サンクトペテルブルクの「マリインスキー劇場」で12月2日、イーゴリ・ストラヴィンスキー本人が紛失したと考えていた「葬送曲」の演奏が行われる。第5回サンクトペテルブルク国際文化フォーラムの一環として、またマリインスキー劇場の来年のストラヴィンスキー年始まりを記念して、披露される。 ロシアでは、「1回の引っ越しは2回の火災に等しい」と言われる。それほど大変、また惨事だということだ。「N.A.リムスキー=コルサコフ・サンクトペテルブルク国立音楽院」の1年半前の状況がこれであった。改築工事が急がれる中、歴史的な建物から離れることを余儀なくされ、音楽院の図書室では100年以上の長きに渡ってたまり続けた膨大な量の宝の整理があわただしく行われた。図書館司書イリーナ・シドレンコ氏は、棚の奥の総譜の山を確認しながら、積み重ねられたオーケストラの古い分譜を見つけた。1951年に廃棄処分が決定していた古い紙のゴ
1943年には新たな抑圧の波が押し寄せ、3分の1にあたるカルムイク人が故郷からシベリアへと連行された。 アントン・アガルコフ カルムイク (ロシア南部にある共和国) の人工の3分の1はスターリンの大粛清時代に強制送還された人たちだ。ソ連の政策の下、あらゆる宗教が迫害されたが、中でも仏教はほぼ完全に破壊された。 アントン・アガルコフ 1941年までには、すべての仏教僧院や寺院が閉鎖されたか破壊された。仏教のエリート層でも最も傑出した者 (高僧や仏教教義の専門家) は、処刑されるか強制収容所へと姿を消していった。 アントン・アガルコフ 復活の時代は、欧州で唯一の仏教共和国であるカルムイク共和国で始まった。多くの若者たちが祖国語と伝統を保存することに興味を持っている。国語講座がこの共和国の主要仏教寺院であるブルカン・バクシン・アルタン・スメ (釈迦牟尼仏の金の精舎) で無償で提供されている。 ア
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ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した最初の映画「僕の村は戦場だった」は、ソ連の映画館の朝の部でしか上映されず、児童映画扱いされていた。=写真提供:kinopoisk.ru ソ連の映画監督は、自分の考えを伝えることができていたのだろうか。それともソ連のシステムをただ反映させていただけなのだろうか。過去の例をたどれば、監督と検閲の相互関係を知ることができる。 宗教はタブー アンドレイ・タルコフスキー監督は、ソ連時代に5作品しか製作できなかった。1作品の制作に平均1年かかるとして、タルコフスキー監督は16年間無職だったことになる。ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した最初の映画「僕の村は戦場だった」は、ソ連の映画館の朝の部でしか上映されず、児童映画扱いされていた。この映画が西側で反戦映画と解釈されたことは、ソ連政府を困惑させた。冷戦とキューバ危機の時代、ソ連の外交政策に反した作品であった。 タ
1924年に『革命的プロレタリアートのための12の性的戒律』という本が出版され、一夫多妻制や性的過剰の慣習が非難された。それ以来、ソ連の検閲は、あらゆる形態の芸術、特に映画におけるセックスを厳重に監視するようになった。ソ連の文化では、まるでセックスが存在しないかのように、セックスを表現したりそれに言及しないことが適正であるとされた。「ソビエト連邦にはセックスは存在しない」という有名な表現がこの概念をきわめてよく言い表しているが、これはエカチェリーナ・フルツェワ文化大臣の発言として誤って伝えられているものだ。 無声映画でも表現豊かなシーン ソ連映画における最初のヌードシーンは、最終的にはカットされた。それはアレクサンドル・ドブジェンコ監督による無声映画、『地球』の1シーンである。裕福な農家の息子によって殺害された社会主義農業労働者の婚約者は、放映時間にして1分間以上、彼の死を裸で熱烈に悼ん
フコンタクチェがドゥロフ氏を失ったと、ロシアのマスメディアはこぞって伝えた。フコンタクチェの業務最高責任者であるドミトリー・セルゲエフ氏、広報担当のゲオルギー・ロブシキン氏ともに、この情報を認めている。 ドゥロフ氏は自身の解任について、新聞を通じて知ったという。フコンタクチェの自身のページには、自分たちが創設したSNSが、「イーゴリ・セチン(ロシアの国営石油会社『ロスネフチ』の社長)とアリシェル・ウスマノフ(ロシアの富豪でインターネット・ホールディング『メール・ル』の大口株主)の完全な管理下」に移行したと書いている。 ドゥロフ氏は4月1日、最高責任者を辞任すると発表。その2日後にエイプリルフールの冗談だったことを明かした。しかしながら株主は、ドゥロフ氏の退職宣言撤回が法的に不正であったことから、実際に辞任しなければならないと判断した。 セルゲエフ氏によれば、退職届は3月21日にすでに提出さ
この即席食品には、ミズゴケをベースにした乾パンと、ハナゴケのソースがついており、お湯を注いで3分待つとできあがる。かなりの満腹感を得られるようになっている。ハナゴケは天然の抗生物質で、結核の治療に役立ち、ミズゴケは気管支ぜんそくやその他の病気の治療で使うことができるなど、治癒特性のある植物だ。 ミズゴケとハナゴケ ミズゴケとハナゴケはカナダ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アラスカなどの北部に生息する。ロシアではヤマロ・ネネツ自治管区、ハンティ・マンシ自治管区、トムスク州の州境、オムスク州およびスヴェルドロフスク州の北部など。 地の果てのインスタント食品 当初は北極圏であるヤマル半島の問題の解決を目的としていた。ヤマルとは「地の果て」という意味で、厳しい北極気候が特徴となっている。この地域には、マンシ人、ネネツ人、ハンティ人、セリクプ人などの北方少数民族が暮らしているが、伝統的な
1. 『カーニバルの夜』(コメディーミュージカル、1956年、4,900万人の観客動員数) 文化会館のスタッフが新年パーティーの準備をする中、もったいぶった老年の官僚オグルツォフはパーティーを退屈な講義に変えて、楽しみを台無しにしようとする。 今ならこの筋書はありきたりに見えるが、1956年当時、これは画期的とみなされた。 3年前のスターリンの死後、「雪解け」として知られる政治的寛容の時代がやって来た。 映画監督たちには、ようやくある程度の表現の自由が許されるようになった。『カーニバルの夜』は、このような新たな時代の到来を告げる作品の一つだった。 楽しみは常にロシア気質のきわめて重要な一部であったため、 オグルツォフは古い時代の否定的なシンボルになった。 ソビエト映画の観客は、1930年代以来初めてジャズバンドを耳にすることができた。40年代と50年代初めには、ジャズは公式に「有害な」音
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