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印刷 細菌戦を行ったとして記されていた場所と「効果」掲載されていた細菌作戦の一覧表=陸軍軍医学校防疫研究報告第1部第60号「PXノ効果略算法」から 旧日本陸軍が1940〜42年、中国で細菌兵器を使用していたことを示す陸軍軍医学校防疫研究室の極秘報告書が見つかった。細菌兵器の使用は93年に見つかった陸軍参謀の業務日誌にも記述があるが、細菌戦に直接携わった研究室の公的文書でも裏付けられた。 旧日本軍の細菌戦については中国人遺族らによる損害賠償訴訟で東京地裁、高裁とも事実と認定したが、日本政府は「証拠がない」との見解を示している。 この文書は「陸軍軍医学校防疫研究報告」のうち第1部の「PXノ効果略算法」。市民団体「731・細菌戦部隊の実態を明らかにする会」(事務局・東京)のメンバーが、国立国会図書館関西館(京都)で見つけた。 関連リンク中国の731部隊跡地に謝罪の碑 日本人の募金で設置(7
中国戦線での細菌兵器の使用について報告した文書が新たに発見された、との報道が週末にありました。 asahi.com 2011年10月15日 「旧日本軍、中国で細菌戦 陸軍の極秘公的文書に記述」(魚拓) asahi.com 2011年10月15日 「「政府は細菌戦の資料公開を」中国の被害者遺族ら会見」(魚拓) 京都の国会図書館西館で見つかったとのことですが、ずいぶん前から閲覧可能だったのに未発見だったのか、比較的最近公開されたのか、といったあたりも気になるところです。 なお一つ目の記事の図表に常徳という地名がみえますが、常徳での細菌戦については生存者のオーラルヒストリーをもとにした研究書が存在しています。 聶莉莉、『中国民衆の戦争記憶―日本軍の細菌戦による傷跡』、明石書店 同書によれば、常徳七三一部隊細菌戦被害調査委員会による2000年11月までの調査で、県城および周辺農村での犠牲者はあわせ
歴史は何のために書くのか。この手の質問を人からされたら、私は嫌な顔を隠せとおせないだろう。ただ、昨日のエントリについてそういう疑問が生じたかもしれない…という懸念は、私のなかにもあって、やはり不十分な文章をパブリックな場にあげても傷つくのは私自身だという反省も、自戒も、今ともにある。 研究費の申請や何やらで、研究の意義を語らなければならないということは、個々にある。個々にあるのだけれど、何故お前は歴史を書くのか、という風な問いの形式で出されると、なんだか面と向かって生まれてきた意味を問われているような気が反射的にしてしまう。わからない人には禅問答のようなことを言っている気がするので、もう少し補足する。 あくまで個人的な考えだけれど、その人自身が抱え込んだいかんともしがたいような混み入った事情と、それをもって社会と向き合ったときに出てくる違和感を編成しなおしたのが人文科学の問題意識であって、
またも同僚との会話で恐縮なのだが、「日本史を研究するって具体的にどういうことなんですか。もうあらかたのことはわかっちゃってるんじゃないですか、とくに最近のことは」ということをたまに言われる。 たぶん私だけでなく、歴史学を専攻していた人は、同様の経験をお持ちなのではないかと思う。別に同僚や友人だけでなく、私は親にも言われる。そしてそのたびに「こんなにも理解されていない」というやるせない思いを押し殺しているのではないか。 実際この問題は大学1年生だった私を激しく悩ませた上に、なまじ概論の試験に「大学で歴史学を学ぶということについて私自身未だ明確な答えが出せずにいる」と馬鹿正直に書いて危うく単位を落とされかかる危機を経験しているので、聞かれるたびにこのことを思い出してイラッとする反面、それゆえ誤魔化したくない思いもある。 そんなわけでどこかにこれを簡単に説明したサイトがないものだろうかと探したら
ちょっと久しぶりに南京事件に関してよそさまでコメントしてきました。bat99さんから示唆を受けて訪問したブログなんですが、行ってみるとコメント欄にはすでに私のエントリと「南京事件FAQ」からコピペしてくれている人が。最近、このようなかたちで「虐殺はあった」派のコンテンツを紹介してくださる方をよく見かけますが、ありがたいことです。もちろん南京事件についても調べるべきことはまだいろいろあるのですが、華北での対ゲリラ戦(三光作戦)についての調べものにもっと時間を割きたいと前々から思っていましたし。 さて、コメントは主としてブログ主氏というより「KHAN」というハンドルの人物のコメントに対するものへと移行していったのですが、繰り返し質問したのにスルーされている論点があります。 いわゆる「自虐史観」攻撃の大きな理由のひとつとして、日本以外は合法、日本のみ違法ということのような、日本だけに厳しいという
「壊れる前に…」さん経由で。 The Miami Herald, 09.15.11, "Indonesian massacre widows welcome Dutch ruling" (ASSOCIATED PRESS) 他の報道*1も参照すると、オランダ政府は60年代の終わりには事件について公式な調査をしていたようですが、「遺憾の意」を表明したのは2005年になってからのことだったようです。 今回の判決で興味深いのは、次の部分です(強要は引用者)。 In a landmark ruling Wednesday, a Dutch court said it was "unreasonable" for its government to argue the statute of limitations had expired for the 1947 massacre that left
Indonesian massacre widows welcome Dutch ruling - オランダの裁判所で戦争犯罪に関する注目すべき判決が下されたようです。独立を宣言したインドネシアに対する旧宗主国オランダの軍による大量虐殺事件に関する判決です。 事件は、敗戦によって日本の占領から解放されたインドネシアが独立を宣言した1945年とオランダが独立を承認した1949年の真ん中、1947年に起こりました。当時 Rawagedeh、現在は Balongsari という名前の村で、オランダ軍が村の男性を皆殺しにしたそうです。殺されたのは150人とも430人とも言われています(この事件も、戦時中の大量虐殺で犠牲者の数を正確に知ることがいかに難しいかを物語っていると思います)。 この大虐殺については、オランダ政府は長い間、沈黙を続けてきて、2005年に初めて、インドネシア各地での蛮行の一つと
きのう臨県に行って写真を焼き、1泊して今日午前中に康老人を訪ねました。まず息子さんのレストランへ行ったのですが、老人は私が取材をした日を境にどんどん悪くなって、もう何日もはもたないだろうというのです。肺ガンだそうです。 歩いて5分の距離にある住居の方に行ってみると、4人の子どもたちも集まっていて、“心の準備”の方はすでに整っているようでした。おばあちゃんだけは先回会ったときよりずっと憔悴した表情で、それでも私の持って行った写真を見せると、とてもいいと喜んでくれました。 息子さんが写真を老人の顔の前に掲げて、「見えるかい?見えるだろう?」と何度か声をかけました。老人は軽くうなづいたようにも見えましたが、すでに意識は現世に留まってはいないようにも見えました。 私の撮った写真が、こんなふうに、かつて日本軍と戦ったある老兵士の網膜に、最後の情報を届けたかもしれないと思うと、痛いほどに胸が熱くなり、
掲示板で smtz8 さんから情報提供をいただいた件についてです。 asahi.com 2011年8月14日 「「日本軍性暴力パネル展」始まる 北京郊外で日中共催」(魚拓) このパネル展をとりあげた卑しい記事は次のような論法を用いています。 (……)しかし、中国ウオッチャーの宮崎正弘氏はこういう。 「日本の市民団体が中国側をけしかけて、こうした展示会をやらせているのが問題。市民団体としては日本の新聞に掲載されるのが目的でしょうね。また、彼女たちは日本で裁判をするためにも、被害者を集めたい。裁判に負けようが、それを通じて支持者を広げようと考えているのでしょう」 かくして中国の若者たちに、日本人への憎しみが植えつけられていく。 強調は引用者。戦争責任なり戦争犯罪についてはまず事実を否定したい、しかしそれが常に通用するとは限らない……ということで登場するのが「自虐」というレトリックであるわけです
別件で上京した機会をとらえて、防衛省の防衛研究所史料閲覧室でなにかおもしろそうな史料はないか漁ってきました。 ちょっと使い勝手は悪かったですが、あそこはあそこで宝の山ですね! ぜひまた漁りに行きたいですね。旧軍関係者の回想録とか文書とかあそこ(一部東アジア歴史資料センターにもあるが、やっぱ史料閲覧室の方が豊富かね)にしかない史料がいっぱいって感じ。 あまり多くは読めなかったけど、その中でも特に「折田貞重大佐回想録」がお勧めかな? とても興味深いことがたくさん書いてあります(あと当人がすごいやる気になって書いています)。一部コピーしてきたので、そのうち著作権に反さない限りの引用で紹介します。 それはそうと、以下の二つのような防衛研究所の奇妙な対応も体験してしまいました。 ・閲覧不可になった毒ガス戦史料 日本軍毒ガス作戦の村―中国河北省・北坦村で起こったこと 作者: 石切山英彰出版社/メーカー
朝日新聞の熊本地域情報において特集されている「軍都の風景」シリーズに、疑問符をつけたい記事があった。 中立的な報道を目指す朝日新聞の悪い面が出ているというべきか。双方の言い分を報じた内容自体は興味深いのだが。 http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001108170003 師団の関与 なお論争 古びた従軍手帳に、その一文は記されていた。 約三百補領ス 全部殺ス 書いたのは、陸軍第六師団の騎兵隊伍長だった牧野信人。日中戦争が始まって間もない1937年12月、国民党政府の首都だった南京攻略戦での記述だ。「捕虜300人を受け取り、全員殺した」と解釈できる。 39年5月、牧野は30歳で戦死。遺品の手帳は、故郷の山本村(現・熊本市植木町)に送られた。今は長男の久仁博(78)が風呂敷に包んで仏壇に納めている。 熊本市を本拠にしていた第六
「ソ連が満洲に侵攻した夏」P241-243より引用。 評すれば、作戦上の予定がどうであったにせよ、総司令部の過早の通化移動は有害無益であった、というほかはない。新京付近の居留民が、われわれを置き去りにして総司令部が”逃げた”と怨むのは当然である。そして戦後、満洲各地にあって生命からがら逃げのびて、帰国することのできた人びとがこの事実を知り、唇を震わせて怒ったのも無理はない。全満各地に届住していた日本人は、だれもが関東軍が守ってくれるものと信じ、関東軍の庇護を唯一の頼りにしていたからである。それがさっさと「退却」したなどとは、考えてみもしなかった。 ヒトラー自決後の、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツの回想録『10年と20日間』を想起せざるをえない。すでにドイツの敗北を予見していたかれは、海軍総司令官の権限で、降伏の四カ月も前から水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を
8月11日にNHKの「ニュースウォッチ9」でとりあげられたエピソードをドラマ化した『青い目の少年兵』が13日深夜(14日未明)に NHK BSプレミアムで放送されていたのを録画して最初の3分の1ほどを観ました。ドラマを論評するにはドキュメンタリーとは違った視点やテクニックが必要になりますのでこのブログでは滅多にとりあげないのですが、一つ気になったことがあるので。 最初の3分の1を観た限りでは、日本軍の捕虜をむやみに殺害する悪弊や朝鮮人慰安婦の存在が描かれていて、単純な戦争美談として消費されることへの予防線はいちおう張られていたと評価できるでしょう。しかしながら、ドラマの冒頭で「これは日中戦争で戦った藤井大典さんの記憶に基づく物語である」という但し書きがテロップで表示された点はさらに重要だと思われます。NHKの取材班はもう一方の当事者である中国人元少年兵(ロブシンさん)を探し当ててはいません
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