日米安全保障条約をサンフランシスコ講和条約と抱き合わせで締結した当時、日本の政治家や官僚や資本家たちは、本心ではアメリカ軍が日本領土内に一方的に駐留を続けることを屈辱と感じ、日米安保体制をあくまでも将来の大日本帝国復活のための「臥薪嘗胆」と考えていたはずだ。 なにしろ日本では敗戦を挟んで指導者が交代したわけではなく、「大東亜共栄圏」を唱え、「鬼畜米英」と呼号した連中が戦後すぐに国家中枢に復帰した。自己と国家を同一化し、自己肥大幻想を国家の膨張主義に「昇華」させる彼らが、在日米軍という「異物」を自らの体内に抱えることは矛盾以外のなにものでもない。 そんな彼らがどうやって日米安保体制を自分自身に納得させたかというと、「共産主義」の「脅威」から日本を「守る」ためにはアメリカの力が必要だという論理を受け入れることであった。 ソ連が消滅し、中国が今や新自由主義顔負けの競争社会になってしまった現在では