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吉本隆明に関するsphynxのブックマーク (6)

  • 言語にとって美とはなにか

    「読んだ」というより「見た」というべき。理解できなかったところありすぎ。レベル違いすぎ。著者に挑発されながら読むというのは、かなりユニークな体験だね。 古今集から戦後文学まで、詩・文学・劇・謡の表現を俎上にあつらえて、吉隆明オリジナルの言語の文学論を創出する。言語の質・韻律・表現・構成という見出しはあるものの、包括的に論じており、再読を強制している。タイトル「言語にとって美とは何か」に惹かれて読むのだが、激しく肩すかしを喰らう。 もともとの動機は、わたしの中にあった。「ものを読んで美や快を得るのはなぜか?」という疑問を、ずっと追いかけてきた。そして、タイトルに限って言う限り、わたしの「気づき」と同じ結論だった。安心したような残念なような気持ちやね。わたしの気づきは古今の文人からヒントをもらっているものだから、彼の影響が第三者を経、わたしに届いていたのかもしれない。 では結論から。「言語

    言語にとって美とはなにか
  • 吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった - finalventの日記

    ソフト・スターリニズムとは何かが以前なら感覚としてある層には共有されていた。おそらく、60年代安保から70年代安保への裂け目の感性を持つ人がいたからだ。それと、吉は関わらなかったが、ハンガリー動乱が日共的なもののの質的な解体を志向していることに気が付いた人がいたからだ。 今その感性が崩れ去ろうとしてのは、彼らが死期を迎えつつあるからか。しかし、その問いは歴史のなかに忘れ去れさられるに足る解体を遂げただろうか。 そうではないだろう。むしろ、その間隙のなかでべ平連的なものが、戦後民主化的なものと結合して※※的なものに結合して、歴史の感性を失った30代から20代の旧知的な特権に吸着される若者に見られるようになった。面白いことに、吉主義者の私に対する攻撃がこのあたりから起きてきたのはあまりに漫画的というか、俺も吉主義者なんかやってるからだよ、な。 この若者たちには60年代から70年代の間隙

    吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった - finalventの日記
  • 快晴 - finalventの日記

    富士山は少し霞んでいる。夢はサッカー観戦とその他という感じだった。失念しまいと思ったが忘れた。 昨晩はそういえば吉隆明の講演まだやっているかなと思ったのが後半で、それから前半を少し見、今朝方残りの中間を見た。一時間半予定が三時間になったのだろうか。そして終盤の吉は、恍惚としていた。最後にぼそっと、言語というものに格闘してこれが私の人生だったんですよ、という感じだった。意識がすでに死に包含されているようすは、率直にいえば醜悪でもあり、これがなるほど人の意識の最後の姿なのかと思った。 出だしは83才にはしてはしゃんとしているなと思ったし、おそらく30分程度の話なら、吉はまだまだ世界を思惟しうるのだろうと思った。ただ、あの講演はそういうものではなかったのだろう。多くの人に理解されたいという部分は、これも率直に言えば失敗したし、たぶん糸井の意図だろうと思うが、足元もおぼつかない吉がおそらく

    快晴 - finalventの日記
  • 吉本隆明に教わったことは多いが - finalventの日記

    その一つは、人はただ生きているということか。そういうふうな表現ではなかったが。 これを読んで思い出した。 これ⇒黒崎夜話: 高い空 黒崎さんのエントリ構造がわからないので、あんこの部分は別の引用なのかもしれないが。 また、黒崎さんにはプロの意識があるようだが。 吉に戻る。 私が吉隆明のを読み出したのは、院を出てからの1983年ごろだ。今思うとネットの黎明期でもあった。 以前にも書いたが私は恩師?のつてで反核署名集めのパシリをしていた。ダイインとかにはさすがに行かなかった。なんとも言えない違和感だけがあり、たった一人取り残され、放り出され、いろいろ考えたなかで、この、「反核」異論、に出会った。 それから手に入る吉はかたっぱしから読んだ。 ネットで知り合った年上の人から吉の話もいろいろ聞いた。 戦後史の書かれない部分がうっすら見えてきた。 吉はこのの後書きで、当に書きたい

    吉本隆明に教わったことは多いが - finalventの日記
  • 嗚呼、猫猫先生! - finalventの日記

    ⇒連合赤軍事件はひたすら愚劣である - を償うにをもってせよ このあたりは触れないほうがいいかとも思うけど、琴線に触れまくりなんで。 私はどうやら生まれついての個人主義者らしい。こういう、集団の中にいる人間の心性というものが、まったく理解できない。むろんそれは、企業であれ大学であれ学会であれ同じことだ。文学史におけるナップとコップとか、原水禁と原水協の対立とか、集団というものの愚劣さを如実に体現したものだと思うばかりである。 これはもう200%同意! 私の場合、スポーツとかに関心ないのもそのせいかもしれない。 ただ、厳密にいうと、私は先生のようなかっちりとした個人主義というより、隠遁者というだけかもしれない。というか、世界がそもそも所詮他人事。 で、ここはちょっと踏み出して、異論的になるけど。というか、批判とかでは全然なくて、自分はこう感じるなというだけだけど。 私は、連合赤軍あさ

    嗚呼、猫猫先生! - finalventの日記
  • そういえば - finalventの日記

    ⇒2008-08-09 - 南無の日記 ⇒吉隆明という巨人 - 愚民の唄 - コンテンポラリィ・ユニットG これね⇒「 心的現象論論: 吉 隆明: 」 おや読者評が妙に低いなと思ったら。 悪夢が再びー, 2008/7/23 By 柴風 (青森県弘前市) - レビューをすべて見る 書は、吉同伴知識人による、吉TEXTの、商業主義的囲い込みの極致である。 山哲士はかつて、「吉隆明が語る戦後55年」と題し、「週刊読書人」紙上に掲載されたインタビューを水増しし、なんと1冊2千円もするを12分冊で読者に売りさばくという、資主義的大手出版社も顔負けの商法で、吉思想を寡占しようとした輩である。 そして今度は、未刊の主著である「心的現象論」の論を、なんと8400円という高値で売りさばこうというのである。新たに書き起こされたものではなく、過去に雑誌掲載されたものをまとめれば良かった

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