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恐山あれこれ日記に関するsphynxのブックマーク (33)

  • 恐山あれこれ日記: 「幸福」問答

    「幸福」問答 その1 「幸福感がないんですが、どうしたらよいでしょうか?」 「簡単な方法があります。『あの人たちと比べれば、自分なんか幸せなほうだ』と思うことです」 「なるほど。実に最悪の方法ですな」 その2 「幸せな時は短く、不幸な時は長い。なぜですか?」 「逆なら話になりませんよ。幸せな時間が長くなれば、誰もそれを幸せだとは思わないし、不幸が短ければ、それは娯楽と変わらんでしょう」 その3 「幸せになりたいんです。どうしたらなれるか、教えて下さい」 「それは金儲けの仕方を他人に質問するのと同じです。他人が教える方法は、すべて役に立ちません」 「そんなあ・・・」 「ひとつ、考えがあります。不幸にも、そして幸福にも耐え切る手段を身につけることです」 その4 「幸せって何ですかね?」 「答えるのは無意味でしょう。むしろ、どうして人は幸と不幸を分けたがるのか考えたほうがよいと思います」 「どう

  • 恐山あれこれ日記: プロとアマ

    プロとアマ いわゆるプロ、つまり職業的専門家と、アマ、すなわち一般的素人との違いはなんでしょうか? おそらくそれは、特定の行動様式や思考方法、つまり一定の規則的な振る舞いにおける習熟度の違いでしょう。そして、その段違いの習熟度の高さを必要とし、価値と認める社会集団があった場合、特定の振る舞いは職業として成り立つ条件を備えるわけです。 さらに、そのような振る舞いをする者が多くなれば、彼らのグループはお互いの利害をめぐって人間関係を調整して秩序をつくり出し、体系化するでしょう。つまり「業界」です(いわゆる「素人ばなれ」「玄人はだし」と言われる人は、振る舞いの習熟度において傑出しているが、「業界」の秩序体系外にいる人のことです)。 ということは、まず第一に、規則的な振る舞いや「業界」的体系が存在しない行為に、「プロ」はあり得ないことになります。 すると、次には、そのような規則や体系を成り立たせ、

  • 恐山あれこれ日記: 「他者」を問う方法

    「他者」を問う方法 およそ宗教には、その信者や修行者が遵守すべきルールがあり、「戒」とか「戒律」とか呼ばれています。 仏教では、出家修行者や信者が個人的に自らを律する規範を「戒」と呼び、僧侶集団の運営規則を「律」と呼びます。 ユダヤ・キリスト教には、有名な「モーセの十戒」があり、これは神からの命令としてモーセが受け取った規範であり、これを遵守することで、神との契約が成り立つ、ということになります。 このうち、条文の表現や適用条件はともかくとして、戒の内容として共通する部分を抽出すると、実質的な内容として「殺してはならない」「盗んではならない」「嘘をついてはならない」「邪な性行為(姦淫)をしてはならない(仏教の出家者の戒としては性行為をしてはならない)」、ということになるでしょう。 これらの四つの「戒」は、およそ古今東西のどの人間社会でも、掟や法律によって禁止されているでしょう。 このうち、

  • 恐山あれこれ日記: あの時の話

    あの時の話 「あなたは、こんな文章も書いていたんですねえ」 最近、私のの読者だという人が、私が永平寺で修行生活をしていたころに書いた文章のコピーを送ってくれました。 それは、当時連載を持っていた『RONZA』(朝日新聞社)の原発特集(1997年2月号)に求められた記事で、私に書いた記憶はあったものの、中身はほとんど忘れていました。 いま読んでみると、いかにも素人臭い、詰めの甘い代物ですが、それでも、この問題に関して今の私が考えていることの趣旨は、すでに出ています。しかも、ちょっと面白い書き方なので、恐れ入りますが、以下に転載させていただきます。 なお、これにて当ブログにおける大震災に関する言及は、ひとまず終ります。ただ、今後、二、三の雑誌や書籍には、震災関連の発言が掲載される予定です。 文殊菩薩が泣いている 「もんじゅ」暴走 「もんじゅ」挫折 「もんじゅ」全面見直しへ 敦賀半島にある高速

  • 恐山あれこれ日記: 千の手、千の眼

    千の手、千の眼 思いつき禅問答シリーズ、そろそろここでもう一回。 仲良く修行に励む弟弟子が兄弟子にこう質問しました。 「千の手と眼を持つ慈悲深い観音様(いわゆる千手観音)は、あんなに沢山の手と眼で、どうしようというのでしょうね?」 「それはね、人が夜の真っ暗闇の中で、頭から外れてしまった枕を、寝ながら後ろ手であちこち探って捜すようなものさ」 「あ、わかった!」 「どうわかったね?」 「体中が手と眼だ、ということです」 「うん、言うべきことはちゃんと言っているが、言い切っていないな。まあ八分目というところだ」 「では、あなたはどう言うのですか?」 「頭の先から足の先まで、手と眼だ」 この問答、私はこう思います。 「闇の中、後ろ手で枕を捜す」とは、つまり当てがない行為を意味しています。それはすなわち、観音様の慈悲とは、あらかじめ超能力(それが千の手と眼です)を備えていて、救うべき人間とその苦悩

  • 恐山あれこれ日記: 悪態です。

    悪態です。 あのなあ。乳幼児はともかく、いま時分、いい大人が水道水や野菜に怯えて、妙な買いだめしてどうするんだ!  だいたい、中年が癌になったところで、それが放射線のせいか、体質か、己れの不摂生のせいか、どうしてわかるんだ!! 酒もタバコも睡眠不足も、そればかりか人口着色料や農薬さえ大して気にとめない連中が、スーパーやコンビニを右往左往するなど、片腹痛いわ。 乳幼児も身近にいないのに、被災地から遠く離れたところで、ペットボトルをかき集めている輩は、その水飲んで生き延びたとして、それが所詮、何だというんだ!! それとなあ。「我々はあなた方と共にある」とか「被災者に元気を与えたい」とか言ったり、それに漠然と共感している者たちよ。ならば、今後、原発事故がどのように収束するにしてもその後、まさか周辺の住民や出身者を差別するようなことはないだろうな! ヒロシマ・ナガサキの後も、ミナマタの後も、就職や

  • 恐山あれこれ日記: ある憧憬

    ある憧憬 ある人に最近、こう言われました。 「あなたの言ったり書いたりしていることを見ていると、一神教、特にキリスト教を批判している割に、なにか憧れめいたものを感じるが、何かキリスト教に直接言及したものがあるのか?」 白状すると、図星です。私はいまでも時々聖書を拾い読みすることがあります。 以下は、ある雑誌の聖書特集に求められて、「好きな言葉」に短文を付したもので、今のところ私が公にキリスト教にふれた唯一の文章です。 それゆえ、兄弟たちよ、われわれは肉に対しては肉に従って生きる義務を負っていないのだ。というのは、あなたがたは肉に従って生きるかぎり、死に向かうが、しかし、霊によって体の働きを死なせるかぎり、生命に向かうからである。 (「ローマ書」8章12・13節) 思い出したくもない思春期時代、ある牧師をあてにして、「神」を棚上げにしたまま、洗礼を受けようとしたことがある。すると、その牧師が

  • 恐山あれこれ日記: 大震災

    大震災 このたびの大震災に際し、多くの犠牲となった方々、被災された方々に、心から哀悼の意を表し、お見舞いを申し上げます。 地震直後から、私自身にも近親者・恐山関係者にも、様々にお見舞いをいただきました。ここに無事をご報告し、深く感謝いたします。 連日の報道を見ると、今回の地震は空前絶後の大災害で、簡単に言うべき言葉が見つかりませんが、ここ数日間、考えていたことを、あえて申し上げておこうと思います。 こういうことが起こると、会う人ごとによく言われるのが、 「いや、和尚さん、当に世の中何があるかわからないね。まったく諸行無常だね」 という話です。 確かにそれはそうなのですが、実は私が今回いちばん強烈な印象を持ったことは、それとは違うのです。 実は、11日のあの時間、私は福井の住職寺にいて、書類をつくっていました。たまたま、午後3時のニュースを見るつもりで、テレビは付けていました(習慣で、私は

  • 恐山あれこれ日記: 「罪」と「信」

    「罪」と「信」 理解できないものは信じられない、と言う人がいますが、理解できることは信じるまでもなく、理解するだけでよいはずです。理解できないものだから、そこに信じる行為が成り立つというものでしょう。「不合理なるがゆえに我信ず」と昔の賢人が言ったゆえんです。 とはいえ、何がなんだかわからないものを信じるというのは、不可能に近いくらい難しいことです。ですから、そもそも絶対的な理念や絶対神的存在、定義上人間の「理解」を超えた存在性格をもつ何ものかを「信じる」とは、そもそもどういう行為なのかが問われざるを得ません。 このとき、その絶対神的存在が、我々を「審判」したり「救済」するという権能を持つというなら、それを「当に」「真剣に」「心から」信じているということは、いかにして自分にも他人にも納得させることができるのでしょうか。 熱狂的な礼拝を際限なく繰り返そうと、いかに莫大な供物を奉げようと、それ

  • 恐山あれこれ日記: デジタル・ニルヴァーナ

    デジタル・ニルヴァーナ 「この先、臓器移植技術が発達し続けるとすると、最終的には、人間の個別性、つまり自己の自己性の物質的基盤はなくなりそうですね」 「脳移植が可能になり、社会がその実施に踏み切れば、もう決定的でしょうね。しかし、移植技術とは別に、もっと自己性を揺るがす問題があるでしょう」 「デジタル技術ですか?」 「その通り。現在のネット空間が、すでにある意味で記憶の共有でしょう。かりに相応の手術で各自の脳から直接ネットに接続できるようになれば、もはや、『自分の』とか『個人の』という所有格のついた記憶は無意味でしょう」 「それでも所有格を維持するとすれば、それは資主義市場を維持する必要上のことでしょうね」 「たとえば暗記中心のあらゆる試験は一切無意味になる。それでも試験というなら、労働市場がとにかく『人材』を選別する必要があると考えるときだけ、ということですね」 「さらに脳システムの解

  • 恐山あれこれ日記: 権利の問題

  • http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2011/02/post_cb43.html

  • 恐山あれこれ日記: 作家の想像力

    作家の想像力 高村薫という高名な小説家をご存知の方も多いでしょう。これまで主にミステリーの分野で大作傑作を数多く世に送り出してきた人です。先日、私はついに氏と対談することになりました。 わざわざ「ついに」と言うには、個人的に理由があります。 高村氏は最近15年ほど、読む側にすれば三部作と見ることのできる、『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』の大著を執筆・発表してきました。 実は、私はミステリーを読む習慣がないので、これまで氏の作品に触れたことがなかったのですが、『新リア王』が新聞連載され始めた頃から、困惑するような事情が出来するようになりました。 まず、永平寺で同期だった友人が、当時まだ永平寺にいた私に、新聞連載の切り抜きを大量に送ってよこして、この作品の主人公はお前がモデルだろう、高村氏と知り合いで、ここに出てくる永平寺の修行の様子はお前がネタ元だろうと言うのです。この作品は、主人公

  • 恐山あれこれ日記: 本末転倒

  • 恐山あれこれ日記: 不運の味

    不運の味 遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。読者の皆様の1年のご多幸を祈念申し上げます。 と、かく言う私は、新年早々、まったく面目ないことになってしまいました。3日午前、近隣寺院に年始廻りをした帰り道、凍結路面で転倒、肋骨を二折ってしまったのです。びっくり。 年始年末の雪と冷え込み。そこで外出には必ず長を履いて、路面にも注意していたのです。その日は久しぶりの晴れ。私は、陽光に照らされて乾いた部分を選んで歩いていました。 ところが、自分の寺の参道付近、そこは日当たりであったものの、陽を浴びて時間が浅く、まだ氷が溶けきっていなかったのでした。 参道入り口近くの家で、ちょうど玄関先の雪掻きをしていたご主人に、新年の挨拶をしながら通り過ぎようとしたその刹那、両足が地面からフワッと浮き、まるでプールに飛び込むが如く、ほぼ水平にアスファルトに落下してしまいました。 私は虚弱で、運

  • 恐山あれこれ日記: 欲望のゆくえ

    欲望のゆくえ 残り少ない今年、各種メディアに接していて、私に印象深かったことは、児童虐待いじめの問題、就職難の若者と自殺し孤独死する中高年、そして所在不明の超高齢者の出現です。 これらを通して見えるのは、人間関係の急速な窮乏です。人間関係が人間の存在そのものであるとすれば、それは単なる「付き合い」の減少ではなく、存在の衰弱を意味するでしょう。 人間関係は自然発生的に形成されるものではありません。それを作り出す「作法」「文法」が必要です。その基的なツールが、たとえば「イエ」「ムラ」「ガッコウ」「カイシャ」などと呼ばれてきたものでしょう。昨今のメディアは、こうした「文法」の機能不全を伝えているのです。 社会存在を与え(「子育て」)、それを終了させる(「看取り」)ことを基機能として期待され続けた家族、職業を通じて地縁・血縁を超えた人間関係を媒介した地域共同体や学校、企業など。それらがこれま

  • 恐山あれこれ日記: 雪の思い出

  • 恐山あれこれ日記: 「個人」の彼方

    「個人」の彼方 私たちは、「自分」としての在り様を他者から課せられています。それは、名前を付けられることに始まって、誰かの子となり、誰かの兄弟姉妹になり、誰かの生徒になり、友人になり、部下になり、夫やになり・・・と続き、その全部を「自分」という枠組みに回収し続けなければなりません。 この時として過大な「自分」の負担が、時に「課せられる」当のものを想定させ、これを「当の自己」と思わせて、他はすべて「仮面の自分」だと言わせたりします。 このブログでは、「当の自己」が幻想にすぎないことを、度々述べてきましたが、「当の自己」ではないとはいえ、「課された自分」をほぼ無効にする体験はあり得ると思います。 それは「死」の前に立つことです。「死」に対しては、人間の一切の属性は無効です。どこの誰で、どういう人物かは、まるで意味を持ちません。金持ちであろうとなかろうと、権力が、あるいは能力があろうとな

  • 恐山あれこれ日記: 何があるかわからない

    何があるかわからない ある住職と檀家の会話。 「私はねえ、世の中、何があるかわからない、そう思って生きてきました。だから、その日一日、目の前のそのこと一つを、一生懸命やってきました。それだけです」 この住職は、近所の人が「あばら家」と称していた荒れ寺を、托鉢をしながら立て直した人です。 住職のこの言葉を聞いて、檀家の銀行支店長いわく、 「なるほどねえ。それが仏教の世界なのかもしれませんね。我々シャバのサラリーマンは、逆ですよ。『何があるかわからない』なんてことが、ビジネスの世界にあってはいけないのです。見積もりだ、手形の決済だ、計画や企画だと、あらゆる予定があらかじめ立てられていて、それに間違いなく合わせていくのが当たり前なのです」 では、この住職は、何の思慮も無く、場当たりで生きてきたのでしょうか。決してそうではないでしょう。「何があるかわからない」諸行無常の世界で、発心し、「志」を立て

  • 恐山あれこれ日記: 閉山の秋