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日本とfinalventに関するsphynxのブックマーク (6)

  • 今日の大手紙社説 - finalventの日記

    特になし。あまりいうのもなんだが、いわゆる左翼の体部分が不況に悲鳴を上げだして迷走を開始しそうな空気が朝日や毎日から感じられる。まあ、それこそ「邪推」の部類だしその自覚もあるので放言でいうのだが、こうした迷走よりそのヘッドクオーターが目下の経済に対する指針を失い、おためごかしの倫理性に逃げていく状況がかなりまずい。もともと政治というのは利害の調停であって、いかなる左翼政権でも同じことになる。であればそこ政策決定の実現性において訒小平的な実力者とその配下にコンピューターのようなインテリをもたなくてはならない(ところが左翼はマクロ経済のイロハもわかっていないっぽいし、欧州左翼インテリも実質こけてしまった)。意外と現下の中共ではそれが実施されているような怖さもあるが、日ではそうした刷新ができてこなかった。長期衰退のなかで健全な論理的な派閥闘争ができなかったのだろう。おそらく醜悪な世論操作がな

    今日の大手紙社説 - finalventの日記
  • なんかね - finalventの日記

    私は海外で生活したことはないけど、なんとなく日的な環境からはずれることがあって、そのせいなのか、あるいは原因と結果が逆で、日的なものがなんとなくイヤだったからなのか、いずれにせよこの年こいちゃうとどうにも引き返せないけど、なんか日の精神風土というのがよくわからないなというのがある。「あれ? 普通の日人はそう考えるのですか?」みたいな。ただ、じゃあ、自分が日人離れした発想しているかというとそうでもないくらいの自覚はあるけど。 ネットとかの言説で、ぶくまとかで可視になっただけかもしれないけど、正論といいうのが、それ自体で成立していなくて、グループというか、うんだうんだワシら、みたいの反響というかそういう、共感目線で成りっている感じがして、なんか萎えるというか。 私は、このエントリには共感する、このブロガーには友愛を覚える、というのはあるけど、エントリやブロガーを中心に、うんだうんだワ

    なんかね - finalventの日記
  • 今日の大手紙社説 - finalventの日記

    終戦記念日の話が多い。私としてはもうこの話はほぼ終了。 ⇒極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット) で、ユダヤ教ラビ、ローレンス・クシュナーはこう語る。 ― 哲学者アヴィシャイ・マルガリートは著書『記憶の倫理』の中で、ユダヤ教の伝統において、許すことと忘れることをどう区別するかについて書いています。また、エレミア書にある神の言葉、「私は彼らの咎を許し、彼の罪を忘れるであろう」を引用します。そしてマルガリートは、神が許したことを神が忘れることはあるかもしれないが、われわれは許すことはあっても、忘れることはないと言っています。 K その言葉は好きだけど、嫌いでもありますね。ユダヤ人はこの概念に固執しています。これはアマレクに関する命令にまで遡るわけですが、人びとがあなたに対してやったことを思い出さなければならない、でないと人びとは同じことを繰り返す、という考え方です。でも、たと

    今日の大手紙社説 - finalventの日記
  • 自主規制や民度とか - finalventの日記

    ⇒自主規制をどうワークさせるか - 池田信夫 blog 今度の規制については、「有害情報の例示」や「登録制」など問題は残るが、基的に民間による自主規制という線が守れたのはよかった(高市氏は採決に欠席したそうだ)。 コメント欄を承認制の件では、へたれとか自己内の警察という批判も受けた。自律は律せられるに非ずということが通じない人は多い。 しかし限界だろうと、池信先生はいう。 これはもう民度の問題だ。Facebookのみならず、校内網でも日人よりはるかに多くの中国人が実名で議論しているのに、日SNSもブログも匿名だから、人的ネットワークが広がらない。最近、急成長しているLinkedInでは、SNSで求職できるが、そういうビジネスも匿名では生まれない。 一般論としては「民度」というワードは議論停止になりがちなので、できるだけそこを避け、可能性を模索しないといけない。ただ、率直に言えば、や

    自主規制や民度とか - finalventの日記
  • 読売社説 万葉集 日本人の心の源流を未来へ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞) - finalventの日記

    いかんなキレそうだ。 日人の心の源流である「万葉の心」について、改めて考えてみるよい機会だろう。 そんなものは明治時代に与謝野鉄幹とかがフカシたもので、万葉の心というは、古今にそして新古今につがれ、並行して仙覚や契沖といった僧侶たちに守られていたものだった。古今にどう受けつがれ、仙覚や契沖がどう思ったか、それをきちんと辿っていかないかぎり、万葉の心なんてわかりゃしないよ。日近代が生み出した日古代幻想に浸ってナショナリズムの情感を濃くしていくだけにすぎない。きっこがやってりゃいい馬鹿話だよ、おっとキレてるなオレ。放言放言。 古代の日人の素朴な感情を率直に表現している。 万葉集が長く読み継がれてきたのは、そこに時代を超えて強く訴える力があるからだろう。 古代日人の素朴な感情がないとはいわないが、近江朝廷のサロンを壬申内乱でぐちゃぐちゃにして新政府が新しいサロンを引き継ぎ、律令的帝国国

    読売社説 万葉集 日本人の心の源流を未来へ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞) - finalventの日記
  • 日経春秋 春秋(4/27) - finalventの日記

    確かに、例えば古代日の文学作品である「万葉集」はみんなで楽しむために編まれた。▼万葉の歌は民謡でもあった。「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき」は「多摩川にさらす手作りさらさらに」「さらさらに何そこの児のここだ愛しき」と「さらさらに」を繰り返す労働歌だった(佐佐木幸綱「男うた女うた」)。琵琶法師が語る「平家物語」も耳から入る娯楽作品だった。 平家物語は案外難しい。万葉集については、これはまあ違うと言ってもいいかな。最近の学説はどうか。万葉集というまとめにも問題がある。基的に現存するのは奇跡に近く、仙覚は偉かった。 ⇒仙覚 - Wikipedia で、万葉集なのだが、巻1、2あたりは国選というか国家との関わりが強い。天智系と天武系の微妙な軋轢を残している(額田王の伝説あたりはけっこうどうでもよいが)。 春秋子が引かれている民謡だが、これが微妙で、ざっくばらんに

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