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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (13)

  • 日常生活は存在しない - metamorphosis

    先週、最終回を迎えた『フタコイ オルタナティブ』について、感想を少し書いてみたい。 まず、この作品に見出すことができるのは、現在のサブカルチャーが直面している混迷ぶりである。『フタコイ』は、大きく分けて、二つの側面から成り立っている作品である。ひとつは、旧来のサブカルチャーに見出すことができた大状況のパロディ的側面(その典型は悪の組織と正義の味方との闘いであるだろう)。もうひとつは、たんたんと続く日常生活を描いた小状況的側面である(特にそこで問題になるのは恋愛である)。これら二つの要素の分離と、その接合しがたさを描いたのが、まさに、『フタコイ』の功績であり、物語が未完結のまま投げ出されている点が、作品に一種のリアリティを与えている。 この種のちぐはぐさ(物語の未消化ぶり)は、アニメ『舞-HiME』についても言えることである。『舞-HiME』において、小状況と大状況との分裂は、結局のところ、

    日常生活は存在しない - metamorphosis
  • 『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis

    毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた

    『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis
    str017
    str017 2009/05/04
    つまり「副次的な効果」=「世界に対する肯定の思想」=「キャッキャウフフ」ってことか/だとするとこの作品の「キャッキャウフフ」を楽しめない私は「けいおん!」を見る意味が無くね?
  • 個人的にその微妙さを推したい2008年のテレビアニメ・ベスト10 - metamorphosis

    『このアニメがすごい!2009』のランキング(今日もやられやく) http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-2689.html マクロス ギアス 墓場 とらドラ 00 夏目 かんなぎ tt ポニョ 絶望 このランキングに取りたてて異論を出したいというのではないけれど、何というか、このランキングを見ていてもあまり面白くないというか、これらの作品だけで2008年のアニメが語られてしまうことにちょっとした不満がある。 実際にこの雑誌を手に取ったわけでもなく、このランキングだけを見ているから、そんな不満が出てくるのかも知れないが、しかし、何かつまらない。 それでは、果たして僕自身が納得がいくランキングとはどのようなものかと考えたときに、2008年のアニメの中で最も良いものを10選ぶというのではなく、ちょっと微妙なところもあるけれど、でも、注目点なり良いとこ

    個人的にその微妙さを推したい2008年のテレビアニメ・ベスト10 - metamorphosis
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    str017 2009/04/23
    オタク内の同調圧力ってやつですかね?
  • 喪失感と諦念――アニメ『WHITE ALBUM』に見出される時代認識 - metamorphosis

    『WHITE ALBUM』のアニメを最後まで見たので、またちょっと感想を書いておきたい。 この作品を見ていて個人的に気になったのは、昭和と平成という時代の違いがどこにあるのかとか、80年代はどういう時代だったのかとか、そのようなことである。このアニメが描いている1986年(昭和61年)という時代、僕は小学生くらいだったが、果たして過去の自分の実感として、このアニメで提出されているような時代の描き方で問題がないかどうか、自分もまたこのような世界を生きていたのかどうか、そういうことがやはり気になるのである。1986年が仮にこのアニメで描かれるような時代だったとして、それから現在まで、果たして時代はどんなふうに推移していったのだろうか、と。 しかし、アニメをずっと見ていて思ったのは、おそらく、このような問いの立て方は間違っているのではないか、ということである。このアニメ作品が舞台にしている時代は

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  • 神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis

    大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問

    神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis
  • コミュニケーションの再構築のために――アニメ『夏目友人帳』について - metamorphosis

    現在『夏目友人帳』のアニメの第二シリーズが放送されているが、僕はまだ、第一シリーズのほうをちゃんと最後まで見ていなかったので、ひとまず、第一シリーズのほうを最後まで見てみた。第二シリーズを見る前に、この作品を見た感想をちょっと書いてみたい。 この作品のアニメーションとしてのクオリティの高さを問題にするのはなかなか難しいが、ひとまず、そこで提出されている問題設定なりテーマ設定というところは、やはり非常に見事なものだったと思う。原作を知らないので、原作と比較して云々できないが、いろいろなアニメ化の方向性がある中で、基的に非常に抑えた演出をしていたのはとても良かった。とりわけ、人間のキャラクターが、現在のキャラ化の方向性から言うと、どれも非常に抑えがちであったが、そうしたところは、この作品の作風と上手く合っているところだったと思う。 妖怪ものの作品というのは無数にあるだろうし、何か特殊なものが

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  • アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

    アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ

    アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して
  • 家族の問題をどう理解すればいいか――TV版『CLANNAD』と劇場版『CLANNAD』とを比べてみて - metamorphosis

    アニメの『CLANNAD』があまりにも良かったので、今度、原作のゲームにも手を出してみようと思っているのだが、その前に、出崎統が監督を務めた劇場版の『CLANNAD』を見てみた。京都アニメーションのTV版と比べてみると、とても同じ原作のゲームから作られたとは思えないのだが、いったい、どういうところでそんなにも違いが出てくるのかということをいろいろ考えさせられたという点では、興味深い作品だったと言える。 TVアニメの『CLANNAD』は全4クール、50話近くにもわたって放送されたのに対して、劇場版のほうはたった一時間半しかないという時間上の制約というのが当然ある。しかし、逆に、そんなふうに時間が制限されると、いったいどこに作品の力点を置くかというところが非常にはっきりするように思う。 結論から先に言うと、出崎統は、『CLANNAD』のメインテーマとでも言うべき家族の問題というものがよく分かっ

    家族の問題をどう理解すればいいか――TV版『CLANNAD』と劇場版『CLANNAD』とを比べてみて - metamorphosis
    str017
    str017 2009/03/23
    いやそうだとするとどっちもダメダメって事になるんじゃないか?
  • アニメ『キャシャーン Sins』の現代性――『スカイ・クロラ』とも絡めて - metamorphosis

    アニメ『キャシャーン Sins』を最後まで見たので、感想を書いてみたい。 アニメのリメイク作品というものは無数にあるが、それらは概ね、失敗する傾向にあるように思う(もちろん、いくつかの例外はあるが)。というのは、そうしたリメイク作品の多くは、アニメ作品をそれ単体で、幾分か現代的な装いの下に、作り直しているにすぎないものがほとんどだからである。 作品というものは、それ単独で自律しているわけでは決してなく、その作品が成立するための文脈というものを必要とする。昔人気があった作品が、現在において必ずしも同様の人気を獲得できないのは、その作品が古くなったというよりも、文脈が変わったからである(むしろ、こうした文脈の変化が「古い」とか「新しい」という言葉で問題になっていることだろう)。従って、文脈を無視して、単に過去の物語を繰り返しているだけのリメイク作品が面白くないのは当然のことである。 では、今回

    アニメ『キャシャーン Sins』の現代性――『スカイ・クロラ』とも絡めて - metamorphosis
  • 貧しい日本文化の表現としてのアニメーション

    現在、日のみならず、全世界が経済危機という名の荒波に飲み込まれているわけだが、そんな時代状況だと、今後日はいったいどんな国になっていくのだろう、というような日の行く末のことを考えないではいられない。しかしながら、このような懸念を、僕は、昨日や今日になって急に抱いたわけではなく、90年代後半からずっと抱き続けてきたと言える。経済的な繁栄が頭打ちした日に明るい未来はないのではないか、という不安をずっと抱き続けてきたのだ。 しかし、そもそもの日国というものを考えたときに、日というのは、豊かな国であるというよりも、どちらかと言えば、貧しい国と言えるのではないだろうか? こういうことを、僕は、しばらく前から、考え続けている。もちろん、日は経済的に豊かな国であったし、現在もそうだと言えるだろう。そういう点では、日はまったく貧しくはないわけだが、しかし、そのような経済的な豊かさすらも、日

    貧しい日本文化の表現としてのアニメーション
  • アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis

    今年の10月から始まって現在放送されているアニメ『かんなぎ』は、『涼宮ハルヒの憂』や『らき☆すた』の制作に関わった山寛が監督をしているという点で、現在最も注目を浴びている作品だろうし、僕自身もそのような文脈で期待していたのだが、放送が2ヶ月経った時点での感想を述べてみると、この作品は、いったいどこへ向かっていこうとしているのかという方向性のよく分からない作品だと言える。 もちろん、この作品が、他の無数のTVアニメと比べてみたときに、比較的上質の作品であることは間違いない。オープニングのアニメーションは実に素晴らしい。ナギが歌っているアニメーションのクオリティが高いというだけでなく、間に挟まれる似非アイドル物語の演出も素晴らしい。加えて、オープンングの曲もエンディングの曲も非常にいいと思う。同様に、編の演出でも、注目に値する場面がいくつもあった。 だが、それにも関わらず、この作品を全体

    アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis
  • 近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis

    極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がってくるということがある。その他者自身には、周囲の人間を不快にさせようという悪意を持っていなくても、周囲の人間にとっては、その他者の行なうことが、さらには、その他者の存在自体が、不愉快な侵犯として感じられるということがありうる。結果、この他者を排除しようとするときに暴力が生じることになるだろうが、そこで暴力を行使する者は、往々にして、自分を被害者の場所に位置づけていることだろう。つまり、自分は先に他者から暴力を受けており、そうした暴力に対する正当防衛として暴力を行使するのである、と。 今日のサブカルチャー作品で同居をテーマとして描いた作品はいくつもあるが、そ

    近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis
    str017
    str017 2008/09/01
    ゼロ年代の作品に置ける共通する要素
  • 暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について - metamorphosis

    現在放送中のアニメ『ブラスレイター』は、暴力とコミュニケーションを巡って、様々な問題を提起している作品だと言える。暴力とコミュニケーションとの関係は、端的に、こう言えるだろう。話すことができないとき、話すことが無力であるとき、そこに暴力が生まれる、と。つまり、暴力とは、話すことの代わりに行なわれる行為、話すことによって何も問題が解決がされないときに行なわれる代償行為であると言える。ということは、つまり、暴力行為があるところには、常に、未だ言語化されていない言葉があると言えるだろう。 アニメ『紅 kurenai』もまた、暴力とコミュニケーションとを扱っていた作品だと言える。見ず知らずの他者との同居は、端的に、コミュニケーションの問題を提起する。問題解決の手段として、話をすることは、時に極めて無力なことがあるだろう。暴力を用いれば問題解決が容易な場面があることだろう(揉め事処理屋としての紅真九

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