1945年8月6日の被爆当日から救護や診療に務めた医師、大田萩枝(おおた・はぎえ)さんが3月8日、肺がんのため千葉市内の病院で亡くなったことが分かった。96歳だった。焼け残った広島市袋町国民学校(中区)での診療は、記録映像に収められ、原爆がもたらした未曽有の事態を今も伝えている。 広島市の医師家庭に生まれ東京で学び、42年から県立広島病院に勤めていた。 「8月6日」は爆心地から約2・3キロの牛田町(現東区牛田本町)の自宅で被爆した。救護かばんを抱えて母やめいと避難した町内の早稲田神社で負傷者らをみとり、自身も嘔吐(おうと)などに襲われた。 さらに県病院が医薬品を疎開していた古田国民学校(西区)で、終戦直後からは勧業銀行広島支店(中区)で、それぞれ収容されていた人たちの救護に当たった。 「どのような手当てをしたのか、記憶から抜け落ちているほど凄惨(せいさん)でした。うらめしい顔をして亡くなる