ハプスブルク帝国の再評価、すなわち、「諸民族の牢獄」から「多民族共存の実験場」へ、という評価の変化が生じたのは、共産主義体制の崩壊やヨーロッパ統合の進展にともなう民族問題の噴出を契機としているのかと思っていたが、再評価の歴史は意外と古かった。 とくにアウスグライヒの再評価の歴史は、アウスグライヒ100周年の1967年から始まり、とりわけハンガリーでは共産主義体制下でもアウスグライヒに関する優れた研究が蓄積されたという。その蓄積の上になされた1990年代以降の多民族国家ハプスブルク帝国の再評価は「神話化」といってもよいほどだったという(大津留厚「ハプスブルク帝国――アウスグライヒ体制の論理・構造・展開――」『岩波講座世界歴史5 帝国と支配 古代の遺産』1998年、所収)。 しかし、20世紀の初頭にすでにアウスグライヒを高く評価し、評価したばかりか、自身の属する国家にアウスグライヒを導入するこ
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