このブログはすべて削除し、閉鎖することに決めました。 僕からのお願い。 1. ベストエントリーを3つ選んでください。それをそれぞれ30部ずつ印刷してください。 2. 諸般の事情で↑が実行できないという方は、やはりベストエントリーを3つ選んで、暗唱できるようになるまで音読を繰り返してください。
このブログはすべて削除し、閉鎖することに決めました。 僕からのお願い。 1. ベストエントリーを3つ選んでください。それをそれぞれ30部ずつ印刷してください。 2. 諸般の事情で↑が実行できないという方は、やはりベストエントリーを3つ選んで、暗唱できるようになるまで音読を繰り返してください。
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
東浩紀のカール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。 例によって速記者が正しければだが、 http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1 カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた 何を言っているか 政治は友と敵を分けることだ 友と敵を分けることが政治 誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺 精神的な意味でも隠喩でもない 「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。 政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。 (『政治的なものの概念』p14) カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的
註(2009.02.04) この記事の1年半後に突然この記事が注目されたので、追加の記事を書きました。これを読み終わった後は、こちらの記事も合わせてご覧ください。 高橋志臣,2009,「仏教と自殺の話がのびておる――“リーチ仏教”、〈祈り〉の純粋さ、自殺衝動の特効薬」(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20090204/1233757683, 2009.02.04). 本文 thalionさんが話題にしていらしたので、私もちょっと考えてみました。 ■元記事:id:macha332007.09.11「自殺と向き合えない仏教」『浄土真宗@』 http://d.hatena.ne.jp/macha33/20070911 ■id:thalion2007.09.12「坊さまは『死ぬな』と言ってくれるとは限らない」『さり海馬』 http://d.hatena.ne.jp/thal
『橋の下のこどもたち』という本がある。対象年齢は小学校中学年くらい。アメリカで発表されたのが1958年、日本での初版は1966年。 橋の下のこどもたち 作者:ナタリー・サベッジ カールソンフェリシモ出版Amazon小学4年のクリスマスに、親からこの本を贈られた。「家のない子ども達とおじいさんの心温まる物語」といった帯の紹介に、なんか夢のなさそうなビンボ臭そうなお話で、気が進まないなあと思ったことを覚えている。当時私が夢中になっていたのは『ナルニア国物語』や「ドリトル先生」シリーズなど、ちょっと現実離れしたわくわくする冒険物語だった。 でも読み始めたらなかなか面白くて、一気に読んでしまった。そして、こないだ数十年ぶりに読み返した。 以下、物語の雰囲気をよく伝えているamazonのレビューから。 アルマン老人は宿無しだ。手押し車一つに家財道具をつめこんで、パリの街を放浪する。仕事も家庭もなく、
■僕はアクセス解析大好きなので(得意げに言うなよ……)、リンク元を探っていると、「留保のない生の肯定とは - はてなキーワード」からアクセスがあったことがわかった。 見に行ってみると、うちのブログの引用とリンクが。[前略‐引用者]元が何かは分からない。 デカルトともセットで使われる。 これとかヒントになるかもしれないが、読んでない。 これを読んで、なぜ「留保なき○○の肯定」という揶揄がデカルトと関係があるのか理解できたし http://coleopteran.seesaa.net/archives/200710-1.html……。「読んでない」って……。この件に関しては、僕も引用されている記事(上の引用ではなぜか一ヶ月分のページにリンクしてあるが……)を書いた時点で多くのことを忘れていたように思う。が、今回ブラウザの“お気に入り”を覗いてみると、関連の記事が登録されていたので、それを頼りに
やねごんさんの、「自由」にかんするたいへんわかりやすい記事 http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080706#p1 に かんれんする かしょを『図解雑学サルトル』(ナツメ社) 図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ) 作者: 永野潤出版社/メーカー: ナツメ社発売日: 2003/08メディア: 単行本購入: 6人 クリック: 145回この商品を含むブログ (44件) を見るから いんようしてみる。 ちょしゃの りょうかいのもとに漢字をへらして かきなおした。 ■(90ページ)自由と不安(1) ●がけの上のわたしには、「がけからおちる可能性(かのうせい)」がある サルトルは、にんげんの自由(じゆう)と不安(ふあん)のかんけいについて、つぎのような せつめいをする。 わたしが、たかい断崖絶壁(だんがいぜっぺき)に そった道をひとりで あるいているとしよ
斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要
Categories open all | close all Tags å称 | èªè¨¼ | RESTful | ã«ãã´ãª | ã¿ã° | method_missing | ã¹ãã³ã¨ã³ã¸ã³ | ãã©ã¼ã | ããã¥ã¡ã³ã | ãã¥ã¢ã«ã»ã³ã¢ | æè² | rubygems | Migration | rake | Aptana | OpenID | CSRF | ãã½ã³ã³ | JustPosted | Flash Search Web2.0ã¨ã¢ã³ããã½ã¼ãªæè²ã¨ããè¨äºãèªãã ã®ã§ï¼ãã®ããã°ã¨ã¯ãã¾ã
昨日のエントリを書くとき脳裏にはあったのだけど、話がずっこけて書くのを忘れていたのが、Web2.0とモンテッソーリ教育ということだった。 私は個人的にシュタイナー教育にはかなり関心をもってオイリュトミーやシュプラッハとか学んだりもしたというか、グルジェフィアンだと思っていた笠井叡先生が帰国後ほどなく開催した一般向けのオイリュトミー講座(中野テレプシコール)に参加していたくちで、あそこから後に有名な日本人オイリュトミストが出てくる。そういえば、ヨガなんかでも東京在外国人グループ向けにこそっとロドニー・イーが開いていたワークショップなんかも参加していたがあそこからも今著名なヨガ指導者が出ているみたいだ。野口体操の野口三千三本人のワークショップにも参加したな云々。時代かな。私も若かったし。ただ、私はどれにもそれほど傾倒しなかった。才能もなかった。しいていうとフェルデンクライスのいくつかのテーマは
いきなりビックリ予告in! 次は、トラメガを持って東工大に行きます。 参考VTR (YouTubeが技術的に見れない諸君、視覚障害者の諸君、ごめんな。気になる場合は「素人の乱 3人デモ」でググってくれ。) わはは、今日は楽しかった。やっぱり現場に行くべきだよね。っていうのは言い過ぎかな。だって人にはいろいろ事情があるし、金とヒマが必要になる。だから他人に対して「現場に行け」とは言えない。ロト6が当たったら札束渡して言うかもしれないけど。ただ、僕は今日、超ウルトラ現場現場した現場体験をしたんだ。なんと言っても、ポストモダニズムを実感したからね。今まで文字情報といっしょうけんめい格闘して何度も挫折したけど、実は、現物があるんだよ。 どこに? 大岡山に。 たらーん! 見よ、これがポストモダンだ! [東京工業大学大岡山キャンパス] 僕は、この中に入ったよ。 すぐに灰を探した。灰はなかった。 ただ、
少し出発前に時間があったので、誤解を受けて叩かれるのは平気だけど、誤解によって議論が進まないのはたまらなくイヤなのでわたしの見解を率直に書いておく。 「ある集団に属しているということを理由に蔑視発言をされた」として、それが「差別」ではない、という場合があるかどうか。もちろんある。問題は、それがどういう集団ならば蔑視発言をされても差別とは呼べないのか、でしょ。 それをyukiさんがきちんと述べず、また「〜という理由で差別ではない」という反論に「理由のいかんに関わらず差別はいけない」と答えてしまっているのが問題だと思って批判してきたのだけれど、以下は、どういう基準なら「差別ではない」と言えるか、という、わたし自身の考え。 売春者が法律を破るから「侮辱しても差別にはならない」のではない。「法律を遵守している善良な一般市民」こそ、侮辱しても差別にはならないのだ。 売春者が世間のモラルに反する仕事を
「だめサラリーマンなMtFTG」を自称するくぼりえさんが、わたしが井出草平さんのブログに残したコメントに反論(?)しています: macska 「フェミ業界ではプロアナの評判は悪いですが、わたしは社会的権力を持たない人たちが「自己コントロール感」を獲得するひとつのクリエイティヴな手段として断固擁護の立場です。危険だ危険だと言うけれど摂食障害で死ぬ人なんて米国全体でも年間100人もいないわけだし」 http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060520/1148083550#c くぼりえ 「鬱病で死んだやつは歴史上いないよな。GIDならなおさら。アトピーでもなかなか死なない。エイズだってHIVウイルスが毒素を出してそれで死ぬんじゃないから、エイズで死んだやつもいないよな。死なないものは問題じゃないってよ!!!」 これ、もしくぼりえさんが本気でこういう事を言っているのだととしたら
米国に端を発した金融危機、日々口にするような食べ物の汚染発覚など、いまや「不安」が常態となっている。 不安な時代が叫ばれるほど、その裏返しに「こうすれば確実に成功を得られますよ」といった、生き方やノウハウの話がもてはやされる。思えば、家庭や学校で教えられた「自分の頭で考え、決断できる人になりましょう」といったこともノウハウの1つでしかなかった。 ある程度の年齢を重ねれば、そんな法則が当てはまらない多くの例外を目にするが、むしろ例外の方が主流なのではと思えてくる。 世の中、思いどおりに行くことのほうが珍しい。努力して成功したが、健康を害した。財産を失ったが、愛する人と巡り会えた……。手に入れるとは失うことであり、その逆も真だと思えることが多い。すべてが偶然ならば、自分の意志で成し遂げられることは、そう多くはないのではないか。 そもそも人は、いつ死ぬかは分からない。だが、“老い”や“病”を得て
反自由党, 教育 | 【神田高校問題】「校長先生を戻して」「服装で合否、正しい」保護者や生徒が嘆願書 神奈川県平塚市の県立神田高校が入試で服装や態度がおかしい受験生を不合格とした問題で、更迭された渕野辰雄前校長(55)を学校現場に戻そうと保護者や生徒らが16日までの予定で署名活動を実施、週明けに松沢成文県知事と山本正人教育長あてに嘆願書を提出する。前校長は教頭時代から同校建て直しに取り組み、信頼を得ていた。多数の中退者など生徒指導に悩む学校現場。同校だけの問題ではない。(中村智隆、鵜野光博、福田哲士) http://sankei.jp.msn.com/life/education/081115/edc0811152132002-n1.htm たしかに悪いと言えば悪い。しかしいかなる基準に照らして悪いと言うのか? 通常の試験であれば合格したはずの者が不合格になったことが不正義なのか? し
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