タグ

身体と精神と哲学に関するumetenのブックマーク (325)

  • 幸福も不幸も自分が決める/戦争と仏教 - Theravada Online ゴータミー精舎日記

    A.スマナサーラ長老の法話(説法)をポッドキャスト配信中。 [RSS feed]※このリンクをiTunesなどにドラッグして下さい。 現代の諸問題にブッダの智慧で答えます。 提供: 日テーラワーダ仏教協会 2008年10月25日ゴータミー精舎で開催されたスマナサーラ長老「ヴィパッサナー瞑想と法話の会」初心者の方との質疑応答より。 幸福も不幸も自分が決める Q 仕事をしていて過去のことを思い出したり、嫌なこと、失敗を思い出したり、将来を心配してしまったりして、目の前の仕事に集中できないことがあります。どうすれば、いまに集中できるでしょうか? A 瞑想で最初に解決するのはそういう問題です。瞑想実践で悪い癖を直せば、ほとんど、人間にとっての問題は解決すると思います。私たちは自分の運命のことを、自分で考えているのです。別にどこかの誰も自分の運命、幸福、将来性、誰も管理しているわけではない。自分で

    umeten
    umeten 2009/06/30
    役に立たない言葉の羅列
  • 表現の"新自由"と法規制について - OAF

    保障されるべきものとしての「表現の自由」とか言う時、それはある種の人々にとっては、法の文言と不可分に/一対一で対応しているのだろうか、と思う時がある。 エロゲ関連で、この界隈が騒がしいのをズラズラ読んでいて思ったのだが、立場を異にする人たちの間で自由や基的人権についての把握の仕方が異なっているのではないかなと感じる。 今回の構図に単純に当てはめれば、自分の立場は"規制派"になるのだと思う。 だが例えば自分的には「基的人権」という概念は、そもそも国家に先立っており、それに優先するものだと考えている。 「自由」に関しても(これは個人的には経済用語/経済と切り離して扱えない語だと思っているが)、国家に先立っているか、少なくとも独立していると思っている。 したがってそんな自分が、何であれ"法規制"に賛成するはずが無いわけだ。だが今回はそういう立ち位置になっている。で、そんな人が他にもいそうな気

    表現の"新自由"と法規制について - OAF
    umeten
    umeten 2009/06/25
    「新自由」「法的に無問題なら完全に正当ということで、誰に文句言われる筋合いはない」という、法への(過度の)信頼を示す態度。
  • 草食系男子の憂鬱 - 内田樹の研究室

    大学の三年生ゼミは「草系男子」について。 先般、四年生のゼミでも同じ主題が取り上げられたので、彼女たちからするとかなり喫緊の課題のようである。 発表後とりあえず全員に聞き取り調査をして、「あなたが知っている草系の実像」についてご報告をうかがう。 いや、聞いてびっくり。 ゼミ生のほとんどの彼氏が「草系」なのである。 特徴は すぐ泣く。 拗ねる。 「どうせぼくなんか・・・」といじける。 かわいこぶる(齧歯類系の「かわいさ」を演じるのが上手) メールに顔文字をたくさん使う。 優柔不断で、「何べる?」「どこ行く?」といった質問に即答できない。 化粧品にうるさい。 肌を美白に保つことに熱心。 ヘア命(ヘアセットができてない姿を見られると、スッピンの女性のように身もだえするらしい) 家族と親密。 などなど。 こういう男子が20代に大量に存在しているらしい。 ううむ、そういうことになっているとは

    umeten
    umeten 2009/06/23
    実存の概念と実存主義(活動/者)が大きくかけ離れているということは理解した。
  • ヴィクトール・フランクル - Wikipedia

    ヴィクトール・エミール・フランクル(ドイツ語: Viktor Emil Frankl, 1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者、ホロコースト生還者。著作は多数あり日語訳も多く重版されており、代表作は『夜と霧』。患者が自ら生きる意味を見出す手助けを施すことにより、精神障害を克服する心理療法「実存分析」(のちにルートヴィヒ・ビンスワンガーによりロゴセラピーと改められる)を提唱した[注釈 1]。 来歴[編集] 1905年にウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。 ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任。「第三ウィーン学派」として、独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏にて広く知られた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医

    ヴィクトール・フランクル - Wikipedia
  • Equipment Reservation

    館機器予約」と「ILC機器予約」は下記の「機器予約フォーム」に統合されました。 "Online request for Honkan Equipment" and "ILC equipment reservation" are integrated into "Equipment Reservation". 機器予約 - Equipment Reservation

  • 真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か - モジモジ君のブログ。みたいな。

    姥捨山問題をめぐって広がった論点のひとつが、「それを人に向けて言うこと」の妥当性だった。たとえば、uumin3氏が、自分の記事の中で自身のコメントを引用している。 uumin3 『こんにちは。私が真っ先に書いたようなんですが、私もいろいろ皆さんの意見を見ました。見た限り大体が「他人をそれで責めるのをやめれ」というご意見だったと思いましたよ。/うちのとこでも「自分に向けて言うのはありだけど」って書いてましたし、……(「詐術2」@uumin3の日記) この問題を巡っては単純化して言えば、「見殺しになるか」という問題と「見殺しになることを、口にするべきか」という問題の両方がある。これまでは前者に限った話しかしてこなかったが*1、今回は、この後者の問題について考える。 応答責任について、何度か述べた*2。このことは、この問題とも大きな関わりがある。 助けを必要とする誰かを目の前にしている。私と、そ

    真実の中にしか生きられない人と共にあることは可能か - モジモジ君のブログ。みたいな。
    umeten
    umeten 2009/06/01
    この自己欺瞞ってのが、いうなれば「分裂的適応」=統合ってことなんだろうな。「うまく分裂ができない」と、統合失調と「診断」される、と。
  • Web評論誌「コーラ」7号 <倫理の現在形>第7回:吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?(永野 潤)

    藤子F不二雄(ふじこ・えふ・ふじお)のSF短編マンガは、繰り返し同じ世界を描いています。それは「人間」がマイノリティーとなる世界です。それは、いわゆる「ディストピアもの」と言ってもいいでしょう。たとえば、「絶滅の島」という作品(1985年)(注1)では、人類が絶滅の危機に瀕した地球が舞台です。地球は毛むくじゃらの巨大な「宇宙怪物」たちに突如攻撃され、圧倒的な軍事力の差に、地球人はほとんど殺戮されてしまったのです。生き残った主人公の少年は言います。「戦争なんてものじゃなかった 一方的に焼き尽くし、破壊しつくし、殺しつくし……。 人間をまるで雑草か何かのように……。」彼を含む27人は、「秘島ツアー」で孤島にやってきていたため殺戮をまぬがれ、生き残ったわずかな人間です。しかし、その人々も宇宙怪物に見つかってしまい、襲撃を受けます。人々は武器をもって抵抗しますが、次々に捕らえられ、残虐な仕方で殺さ

  • レベル0 遷延性意識障害を考える その3 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り

    ■なぜレベル0が設定されたのか レベル0に設定した「遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)」。 俗にいう植物状態のことです。 遷延性意識障害 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E5%BB%B6%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%9A%9C%E5%AE%B3 以下抜粋。 日脳神経外科学会による定義(1976年)。 自力移動が不可能である。 自力摂が不可能である。 糞・尿失禁がある。 声を出しても意味のある発語が全く不可能である。 簡単な命令には辛うじて応じることも出来るが、ほとんど意思疎通は不可能である。 眼球は動いていても認識することは出来ない。 以上6項目が、治療にもかかわらず3ヶ月以上続いた場合を「植物状態」とみなす。 wikiに書かれている図をみるとくわしいが、植物状態と宣言され

    レベル0 遷延性意識障害を考える その3 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
    umeten
    umeten 2009/05/28
    言葉を発しないと人間扱いされない=死体扱いされる=トリアージで見殺し≒生きた臓器として生体解剖
  • 【第4回】「自分取材」で、ネガティブな自分を知る (自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術):NBonline(日経ビジネス オンライン)

    気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 「自分取材」をするうえで重要なのは「自分の動機」です。 「動機」というと、ポジティブなものをイメージされるでしょう。例えば「好きなこと」や「やりたいこと」は何か。あるいは、「自分ができること」や「自分に求められること」は何か…。 もちろんこれらも大事な動機ですが、ポジティブな動機に引きずられすぎると、「自分探し」と同じで、疲弊してしまうのです。 そこで、「自分取材」していただきたいのは、次の4つです。 1)嫌いなこと 2)やりたくないこと 3)できないこと 4)求められていないこと ネガティブなことを考えるのは自分の成長を妨げる、という意見もあるでしょう。しかしポジティブな視点だけでなく、ネガティブな視点から自分を知っておかなければ、自分が「

    【第4回】「自分取材」で、ネガティブな自分を知る (自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術):NBonline(日経ビジネス オンライン)
  • 『ストーンオーシャン―ジョジョの奇妙な冒険 第6部』を読む - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

    はじめに ユリイカ2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦 鋼鉄の魂は走りつづける 出版社/メーカー: 青土社発売日: 2007/11/26メディア: ムック購入: 5人 クリック: 886回この商品を含むブログ (130件) を見る 大変いまさらな話題なのですが、『ユリイカ』の荒木飛呂彦特集(11月臨時増刊号)を年末に購入して読みました。そうしたらやっぱりジョジョを読み返したくなってしまって、年末年始からマンガ喫茶で読みふけっています(最近出た第4部のノベライズ版も購入したのですが、残念ながらまだ読めていません)。個人的には、ジャンプを読み始めた頃にちょうど始まったということもあり、「第4部」が一番好きなんですが、やはりラストの圧倒的な感じは「第6部」が抜群だと思っています。そこで唐突ではありますが、以前、第6部について個人的に書いてみた文章があるので、少し手を加えて、ここにアップ

    『ストーンオーシャン―ジョジョの奇妙な冒険 第6部』を読む - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena
    umeten
    umeten 2009/05/27
    時間=偶然を支配する能力と、超人思想と、主体幻想。ただし、マンガメディアのヤンキー文化としての宿命=政治性として主体幻想が勝利を収める、と。
  • 個人は抽象的カテゴリの単なるサンプルではない - 遠方からの手紙(別館)

    生きている具体的な個人というものは、どんな場合にもある一つのカテゴリーだけにすっぽり収まるものではない。たとえば、川田龍平さんがエイズ患者であるとしても、彼のすべてがそのことに還元されるわけではないし、乙武さんが障害者だとしても彼の存在のすべてがそのことだけで説明されるわけでもない。 だからこそ、彼らがエイズ患者であり、あるいは障害者であったとしても、それとは別に、個人としての彼らを批判すること自体にはなんの問題もない(その内容や方法の是非はともかくとして)。 同様に、ある人が現に「派遣社員」であって、そのことが今の彼にとって非常に重い意味を持っているのだとしても、その人の存在は、そういうカテゴリーだけに収まるものではないだろう。もし、彼が自分で自分をそのように考え、そのように主張しているのだとすれば、それこそがおかしな話である。なぜなら、それは、自分は「派遣社員」であるということを除いて

    個人は抽象的カテゴリの単なるサンプルではない - 遠方からの手紙(別館)
    umeten
    umeten 2009/05/21
    具体的な人間の存在をそのようなただ一つの抽象的カテゴリだけに押し込めてしまうことは、むしろ差別を固定化することにつながる。なぜなら、差別からの解放とはそのようなカテゴリそのものの無化を目指すものだから
  • 彼らが黙せば石が叫ぶ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

    「影響力なんか知るか」ってのも欺瞞的だな。仮に影響力を持っているのだとして、じゃーそれを行使して何が悪いの? と開き直ったほうがいいんだ、きっと。 http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090512/1242127656 違うな。正しい方向ではあるけれども。わたしならこういう――影響力は積極的に意図的に行使されるべきであり、影響力の大きな人間ほど積極的に発言すべきなのだと。行使されない力は潜勢に可能性に留まり、それはなるほど力ではあっても我々の世界に実質的な影響を及ぼさない死んだものとなる。土の中にうめた銀塊がいかなる富をも生み出さないように。 レトリックの公共的機能ということに最近かんたんに言及したが(わたしの文章修行 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake)、コミュニケーションの媒体としての言語は公共性をつねに帯びている。たんに誰にでもきかれるということに留

    彼らが黙せば石が叫ぶ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
    umeten
    umeten 2009/05/14
    しかし、このような政治的影響力は簡単に低下する。たとえば今の僕が何を言ったところで取り立てて騒ぐようなことにはならないだろう。しかし、そのことと自らの発言の政治的影響力を認識する社会的義務は別、だ
  • 「じぶんの ただしさを うたがわない ひとは こわいですね」 - やねごんの にっき

    「じぶんが 正義だと しんじこんでいる ひとは こわい」。あるいは、「じぶんの 無謬性*1を うたがわない やつらほど タチが わるいものは ない」。 こうゆーよーな いいかたって、よく なされますよね。「ただしさ」「正義」という ことばで なにかを 主張すると、しばしば こういった いいかたで たたかれます。ほとんど もんぎりがたの きまりもんく、ひどく ありふれた 定型文と いって よいと おもいます。 たにんの 意見や 行為を ひはんしようと する ばあい、じぶんの がわに 「正義」が あると とりあえずは かんがえるのは とうぜんのことです。だから、そういう ひとに むかって 「きみの 主張は 正義ではない」と いうなら ともかく、そうではなくって 「おまえは じぶんが 正義だと しんじこんでいる、けしからん!」などと いっても、なにごとかを いったことには ならないと おもうので

    「じぶんの ただしさを うたがわない ひとは こわいですね」 - やねごんの にっき
    umeten
    umeten 2009/05/10
    >もんだいは、「なにが 正義か?」の はんだんが むずかしいことではなく、そういった はんだんが さけられてしまうという しくみに あるのではないか、と おもいます
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
  • 公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ - やねごんの日記

    学生だったころ、しりあいから きいた はなし。 そのひとは 哲学科の 学生で、高校の倫理の教員免許をとるために、教育実習に いったのでした。たしか、カントかなにかを つかって、「自由とは なにか?」というようなテーマで、授業をやったんだそうです。 かのじょが いうには、実習さきの教師に「自由」についての授業をやりたいという計画を はなしたら、あらかじめ くぎをさされた、と。そのせいで、どうやって授業をくみたてたら よいものか、こまっちゃったよ、ということでした。 その実習さきの教師の いいぶんとは こうです。「とくに高校生たちのなかには、自由の いみを はきちがえるものが おおい。他人に めいわくを かけるのも自由だ、という あやまったかんがえを もっているものも すくなくない。だから、授業は きほんてきに あなたの やりたいように やっていいけれども、『自由には責任がともなうこと』また『

    公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ - やねごんの日記
  • 湯浅誠とジジェク - 続・自我闘病日記

    昨日は偶然の一致かなあと思うことがあった。 新聞のテレビ欄に「生存権を考える」(NHK教育)という番組の紹介(試写室)があって、その番組には「派遣切り」で失職、住む場所も失った労働者を支援してきた派遣村村長の湯浅誠氏が出演するということだった。番組を見なかったので、「試写室」をいつもより丁寧に読んだ。「試写室」は、湯浅氏の代弁をしていた。湯浅氏の考えとそう大差はないものと思われる。 「湯浅氏は日を「人間をつぶしていく社会」と語る。口調には政治への怒りと、政治を変えきれないことへのもどかしさもにじむ。」(朝日新聞、2009年5月3日) 「派遣切り」がこれほど大きな問題になったのは、主に製造業に派遣された人たちが雇用調整弁として使い捨てのモノのように扱われているからである。捨てられたモノはリサイクルされるか、不要なものとして燃やされるだけである。現在は、後者が圧倒的に数が多い。こうなったのに

    湯浅誠とジジェク - 続・自我闘病日記
    umeten
    umeten 2009/05/08
    「責任」のトートロジー処理。ジジェクのそれは、無自覚に「余裕」を担保する者の吐く寝言だが、それがテロリズムへの入り口であることに気づかないならそれもまた一興だ。無差別は無差別に帰す。
  • 「将来世代を産出する義務はあるか」という論文を書きました - kanjinaiのブログ

    大阪府立大を拠点に、「生命の哲学」プロジェクトを進めている。その成果の一端は、先日の応用哲学会のワークショップ「生命の哲学の可能性を考える」でも発表した。2008年から、年に1のペースで、「生命の哲学」の共著論文を刊行しているが、その第2回が出たので、紹介する。 森岡正博・吉陵「将来世代を産出する義務はあるか?:生命の哲学の構築に向けて(2)」 http://www.lifestudies.org/jp/philosophylife02.htm 哲学者のハンス・ヨーナスは、環境倫理学の基盤として、将来世代への責任を提唱した。しかし、そもそも将来世代は将来に存在しないといけないのだろうか。我々は、将来世代を産出する義務を負っているのだろうか。これが論文のテーマである。前半では、ヨーナスに沿って考えたときにどうなるのかを検討した。後半では、ヨーナスを離れて、そもそもわれわれはそのような義務

    「将来世代を産出する義務はあるか」という論文を書きました - kanjinaiのブログ
    umeten
    umeten 2009/05/07
    >ここでは地球人類レベルで考えている/いまは国レベルの議論はとりあえず想定されていない  さしあたり国家レベルに限定しないと極論としか読まれないような印象
  • 斎藤環から茂木健一郎への手紙 「連載 脳は心を記述できるのか」について

    「連載 脳は心を記述できるのか」について 以下の斎藤環さんの手紙は、来、茂木健一郎さんと「脳は心を記述できるのか」というテーマで往復書簡をおこなうという前提で書かれたものです。残念ながら、いまだに茂木さんからの復信は来ておらず、この連載企画は第1回で頓挫しております。 いずれにしても、マスコミが茂木フィーバーとなっている現状で、ここまできっちりと茂木さんに懐疑的な意見を表明した斎藤さんに敬意を表しつつ、この第1回分の手紙については掲載しつづけることにいたしました。 では、以下は斎藤さんから茂木さんへの手紙です。 第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環) はじめまして はじめておたよりします。斎藤環と申します。 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。 そのかわりといってはなんですが、妙

    umeten
    umeten 2009/05/04
    「クオリア」とは信仰=懐疑の停止点ではないのか、という指摘。「実存」に対する「本質」のことを「クオリア」だとしているのではないかという指摘。
  • 「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point

    宮台真司『日の難点 (幻冬舎新書)』pp.95-6より: そんな母親の構えのお蔭で「自分の母親は世間の母親よりもずっとスゴイ」と思えました。そうした母親の子であったせいで「浅ましい奴」や「セコイ奴」には絶対なりたくないと思うようになったのでしょう。これも「目的」や「手段」ではなく端的な「衝動=感染的模倣」だろうと思います。 もちろん、そんなふうにしてできあがった僕の構えが実利をもたらす面が確かにあります。それはスピノザも言っていることです。僕の場合、売買春やクスリのフィールドワークをする際にヤクザにケツ持ちしてもらってきました。お蔭でこの方面でたくさんの著作をものすることができました。 女の子がストーカーにつきまとわれて困っているというようなときも、警察に頼んだら(ストーカー規制法成立以前だったので)半年以上もかかるところを彼らが三時間で解決してくれることもありました。僕の研究に役立つ情

    「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point
    umeten
    umeten 2009/05/03
    「たどりつくべき答え」が「厳密さ」ではなく、「あいまいさ」にあることに由来する、ストレス・すれ違い、か。「あいまいであれ」という暴力的光景の一端がここに。
  • 「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point

    の難点 (幻冬舎新書) 作者: 宮台真司出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2009/04/01メディア: 新書購入: 28人 クリック: 233回この商品を含むブログ (227件) を見る「はじめに」より: 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした二〇世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、一九九四年あたりから専門家に知られ二〇〇一年以降人口に膾炙(かいしゃ)した「コミットメントの恣意性」を問題にする二一世紀的人文知へと、転回したことになります。 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたら

    「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point
    umeten
    umeten 2009/05/01
    精神医療に不信と不毛を感じるのは上山氏の様な「枠組みを信じられない」思考様式に対して「異常=診断」を行いながら、それを生かしめる福祉を与えない点だ。だから絶望する。だから憎悪する。テロリズムが生まれる