タグ

歴史と建築に関するusataroのブックマーク (61)

  • 江戸期「福島邸」保存へ 惜しむ声に当主移築へ / 西日本新聞

    江戸期「福島邸」保存へ 惜しむ声に当主移築へ 2011年8月31日 00:26 カテゴリー:九州 > 宮崎 江戸期のはりなどが確認できる福島邸の建築様式を見学する北海道大学大学院の小沢丈夫准教授(右)玄関と土間部分を解体した福島邸 江戸時代中期、約300年前の建築物と伝えられ、解体が決まっていた宮崎市中村西の古民家「福島邸」が移築保存されることになった。当初は取り壊す予定だったが、解体を惜しむ市民の声が広がり、当主の福島順一さん(82)が「歴史的評価や惜しむ声を聞いて、やはり残すべきだ」と決断した。母屋を可能な限り現在の形を保ちながら、隣接する土地に移す計画だ。 保存のきっかけになった同邸の見学会を6月下旬に開いた宮崎県景観会は、宮崎市の景観重要建造物指定を目指す。 家屋の移築工事は7月上旬に開始。高い技術と資材の調達などが必要で、工期は1年に及ぶ見通し。シロアリの影響で土台や柱、梁(

    usataro
    usataro 2011/09/02
    こういう文化財保存には、何とかして行政的にサポートしてほしい。
  • asahi.com(朝日新聞社):築106年の下宿「本郷館」解体へ 「圧倒的な存在感」 - 社会

    印刷 7月いっぱいで解体されることになった郷館。「私有地につき立ち入りを禁じます」との看板が立てられている=26日午後、東京都文京区郷6丁目、北林写す7月いっぱいで解体されることになった郷館。「私有地につき立ち入りを禁じます」との看板が立てられている=29日午後、東京都文京区郷6丁目、北林写す7月いっぱいで解体されることになった郷館=29日午後、東京都文京区郷6丁目、北林写す  築106年の東京・郷の下宿「郷館」が7月いっぱいで取り壊されることになった。関東大震災や東京大空襲にも耐えたが、建物の老朽化が激しいとして家主側が解体を決定。かつての住人や建築家らがその姿を惜しんでいる。  郷館は木造3階建て。1905(明治38)年、東京大学の正門から約200メートルほど離れた細い路地に建てられた。延べ床面積は約1500平方メートル、中庭を囲むように76室がある。風呂はなく、トイ

    usataro
    usataro 2011/07/30
    その街の歴史性を担保するこういう建築があっさりと解体されていくんだよなあ。もう少し保存へ向けた動きができなかったんだろうか。
  • 「明治五大監獄」の旧長崎刑務所 保存工事ほぼ終了 / 西日本新聞

    「明治五大監獄」の旧長崎刑務所 保存工事ほぼ終了 2011年7月26日 00:27 カテゴリー:社会 九州 > 長崎 正門などの保存工事がほぼ終わった旧長崎刑務所。門扉横と端にある色が薄いれんが模様の部分は、倒壊防止のため新たに設けられた=21日、長崎県諫早市野中町 日初の近代監獄で「明治五大監獄」の一つ、旧長崎刑務所(長崎県諫早市野中町)の正門などの保存工事がほぼ終わった。保存された正門一帯の約190平方メートルは公園として整備される。 保存したのは、正門と左右に広がる看守詰め所、塀の一部(高さ約6メートル、長さ約38メートル)。諫早市が約1200万円をかけ、倒壊防止の補強工事や案内板の設置、れんが表面の洗浄をした。 刑務所は、旧司法省技師の山下啓次郎(1867-1931)の設計で1901年に着工、08年に利用が始まった。装飾が施された正門や、全体を囲む赤れんがの壁が特徴的で、92

    usataro
    usataro 2011/07/27
    結局尖塔の本館も放射状の監獄棟も残らなかった。この市の行政は、あんな大規模な近代建築群をこの程度しか残せないんだな。もう少し知恵を出せば遙かに価値の高い形で活用できたはず。
  • 14世紀に東南海・南海地震連動…伊勢神宮史料 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    14世紀に起きた大地震「正平(しょうへい)南海地震」が、東南海地震と連動していたことを裏付ける記述を、三重県地震対策室の奥野真行さん(39)が、三重県・伊勢神宮の史料から発見した。 伊勢神宮の外宮(げくう)正殿で柱が倒れたと被害の状況が記されており、震度6弱以上の揺れが起きたと推定される。 同神宮は東南海地震の想定震源域内にあることから、これまではっきりしていなかった「連動」の根拠として注目されそうだ。研究成果は、22日から千葉市で始まる日地球惑星科学連合大会で発表する。 奥野さんは、伊勢神宮関連の記録文書「神宮文書」で、1361年(正平16年)8月3日付の書状に、「依去六月地震、心御柱(しんのみはしら)傾倚、御束柱(つかばしら)顛倒」とあるのを見つけた。6月の地震で外宮正殿の建物の中心に置かれた「心御柱」という柱が傾き、高床式の床下の柱である「束柱」が倒れたという記述だ。この規模の被害

    usataro
    usataro 2011/05/29
    うーん判断保留。古記録には伊勢の社殿顛倒の記事はけっこう出てくるから、大きな地震なのかどうかは、もう少し類例を見てみないと判断できない。
  • asahi.com(朝日新聞社):京都御所の御殿内、16年ぶり一般公開へ 9月 - 社会

    【動画】110524京都御所紫宸殿報道陣に公開された京都御所の紫宸殿=24日午後4時27分、京都市上京区、小林裕幸撮影報道陣に公開された京都御所の紫宸殿=24日午後4時26分、京都市上京区、小林裕幸撮影  宮内庁京都事務所は24日、京都御所(京都市上京区)の御殿内を9月に一般公開すると発表し、報道陣に先行公開した。内部の公開は、火災からの再建140年を記念した1995年の公開以来、16年ぶり。  今秋に京都である国民文化祭に合わせ、待合室にあたる諸大夫(しょだいぶ)の間(ま)や天皇の日常生活の場だった清涼(せいりょう)殿、即位式があった紫宸殿(ししんでん)など6カ所を公開する。9月18、19、23〜25日の5日間、1日の定員480人。  申し込みは、往復はがきで郵便番号602・8611 京都市上京区京都御苑3、宮内庁京都事務所へ。6月21日の消印有効。応募者多数の場合は抽選。問い合わせは同

  • asahi.com(朝日新聞社):「赤プリ」閉館 バブル世代の憧れ「思い出ありがとう」 - 社会

    「赤プリ」の愛称で親しまれ、老朽化などを理由に55年の歴史に幕を閉じる「グランドプリンスホテル赤坂」(東京都千代田区)で31日、閉館セレモニーがあった。従業員が一列に並び約700人の宿泊客を見送る中、最後の宿泊客が午後0時半ごろにチェックアウト。「思い出をありがとう」。利用客から寄せられたメッセージが披露され、従業員らが涙を流して閉館を惜しんだ。  同ホテルなどによると、ホテルは1955年に「赤坂プリンスホテル」として開業、07年に今の名称に改名した。六木に近い立地条件や高級なイメージから、80年代後半から91年までのバブル経済期に若者たちの憧れのホテルとして名をはせた。特に高級レストランや高級ホテル、リゾートで過ごすスタイルが大流行したクリスマスシーズンの予約は9月末には埋まり、クリスマスにチェックアウトした客がその場で翌年分を予約したほど人気を集めた。  閉館後は、解体が始まるまでの

    usataro
    usataro 2011/03/31
    避難所としてもう一働きするのも何かの巡り合わせだろう。/「旧朝鮮王室の邸宅として使われていた旧館は、歴史的建造物として保存される見通し」
  • 東京駅にタマネギ型ドーム出現 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    1914年(大正3年)の完成当時の姿に復元工事が進められている東京駅丸の内駅舎(国の重要文化財)で、南側の屋根を覆っていたカバーが外され、復元を終えたドーム型の屋根が姿を見せた。 ドーム部は幅約20メートルで、頭頂部の高さは地上から34・8メートル。上空から見ると、タマネギのような八角形のデザインで、銅製の骨組みと装飾部分が日差しを受けて輝いていた。駅舎は鉄骨レンガ造りで、2007年に復元工事が始まった。12年に完了する予定。

    usataro
    usataro 2011/02/08
    東京駅はやっぱり戦災復興の形態を尊重すべきだったと思う。なんかあっさりと決まっちゃったような気がするけど、その当時に歴史的遺産としての検討がきちんと行われたんだろうか。
  • 寒すぎる箱館奉行所 「幕末」忠実に復元し時に氷点下 苦情相次ぐ−北海道新聞[文化]

    寒すぎる箱館奉行所 「幕末」忠実に復元し時に氷点下 苦情相次ぐ (01/23 13:01、01/23 13:06 更新) (上)防寒着を着込んで解説するスタッフ。雨戸を閉め切っているため、自慢の「違い棚」の美しい木目も暗くて見えない(下)「寒すぎる」と苦情が出ている箱館奉行所 【函館】函館市が昨年7月、国特別史跡・五稜郭内に復元し、初の冬を迎えた箱館奉行所で観光客から「寒すぎて十分見学できない」との苦情が相次いでいる。完全復元を原則とする国の方針に従い、幕末期の構造を忠実に再現したため通気性に富み、暖房設備が十分でないためだ。管理する市教委は、文化庁と近く対策を協議する。 「今の室温は2度。時には氷点下になる」。奉行所奥の暖房機のない部屋で、加納裕之館長(78)は話した。「室内でもコートは手放せない」という。 箱館奉行所は1864年(元治元年)に幕府が北方警護のため建設し、71年(明治4年

    usataro
    usataro 2011/01/29
    近代以前の建築なんだから寒いのは当たり前。/どういう感覚を持った人が苦情言ってるのか興味がある。江戸期の建物知らない人とか?
  • 【A面】犬にかぶらせろ!: 東北新幹線のキャンペーンポスターのランドマーク変遷イラスト

    3月に開通する東北新幹線“はやぶさ”のキャンペーンポスターを見かけて、ちょっとおもしろかったので張っておく。 キャンペーンタイトルは“MADE IN DREAM”。蒸気機関車から電気機関車、新幹線、と機関車の進化の背景に、時代を象徴する建物が並んでいる。 左端の富士山から、東京タワー(1958)、国立代々木競技場(1964年)、遠景に新宿三井ビルディング(1974)なんかの新宿西口の超高層ビル街も見えて、東京都庁第一庁舎(1990)があり、六木ヒルズの森タワーとレジデンス(2003)がある。最も現代に近いところに東京スカイツリー(2011)が置かれている。 その時代のランドマークの変遷図。よくできたポスターだっていうだけのブログ記事ではなく、なんとなくメモ。

    【A面】犬にかぶらせろ!: 東北新幹線のキャンペーンポスターのランドマーク変遷イラスト
    usataro
    usataro 2011/01/27
    なかなかいいポスターだなあ。見てみたい。
  • 「平成の大遷宮」島根・出雲大社で本殿の大屋根葺き替え始まる - MSN産経ニュース

    約60年ぶりにご神体を仮殿へ移す「平成の大遷宮」が行われている島根県出雲市の出雲大社で13日、国宝・殿の檜皮屋根を葺き替える作業が始まった。177坪もある大屋根に約64万枚の檜皮を葺いていき、1年がかりで完成させる。 檜皮は、丹波地方などの樹齢100年以上のヒノキから採取。長さ120センチ、幅15〜20センチの特大サイズの平皮など6種類を使う。 この日は小雪が舞う中、「葺師(ふきし)」と呼ばれる屋根職人5人が、一晩水につけた檜皮を屋根に運び、殿正面の軒付(のきづけ)(先端部)から順に、15〜20枚重ねた檜皮を竹くぎを使って積み重ねる作業を進めた。 葺師の1人、小池一平さん(31)は「普段使わない大きな檜皮も使うだけに、美しく固定させる作業は難しいが、新たな発見があってやりがいを感じます」と話した。

    usataro
    usataro 2011/01/16
    「約60年ぶりにご神体を仮殿へ移す「平成の大遷宮」が行われている島根県出雲市の出雲大社で13日、国宝・本殿の檜皮屋根を葺き替える作業が始まった。」
  • 日本初の駅ホテル解体 ベーブ・ルースやヘレン・ケラーも宿泊 山口・下関市 - MSN産経ニュース

    国内初のステーションホテルとして開業し、大正13年に再建された山口県下関市の旧「山陽ホテル」の解体作業が14日、始まった。ベーブ・ルースやヘレン・ケラーらも利用した名門ホテルだ。解体された建物の一部が交通科学博物館(大阪市)に保存される。 この日は安全祈願祭が行われ、建物の前では市民が集まり、鉄道唱歌などを歌って別れを惜しんだ。 山陽ホテルは、山陽鉄道が明治35年、旧下関駅近くで開業。その後、火災で焼失したが、大正13年に今に残る地上3階、地下1階の建物が再建。朝鮮半島航路の発着点で海外の著名人や政財官界の要人らも宿泊や休憩に利用。皇族用の貴賓室もあった。 しかし、下関駅の移転に伴って昭和17年に廃業。戦後は、国鉄やJR関連企業の事務所に使っていたが、平成15年、耐震性に問題があるとして所有するJR西日が閉鎖し、取り壊しを決めた。JR西は「貴重な文化財という認識はあるが、維持や改修はコス

    usataro
    usataro 2011/01/15
    下関は大きな観光資源の芽を失った。なんでこういう文化財をちゃんと残す仕組みができないんだろう。
  • 築101年目直方駅 保存求め署名へ / 西日本新聞

    築101年目直方駅 保存求め署名へ 2011年1月14日 00:11 カテゴリー:社会 九州 > 福岡 1910(明治43)年に建築されて101年目を迎えた今年、解体が予定されている福岡県直方市のJR直方駅舎の保存を求めて、市民グループの直方文化遺産研究会(樋口清代表世話人)が14日、署名活動を始める。市の内外に協力を呼びかけ、4月上旬に署名簿を向野敏昭市長に提出する方針。「筑豊炭田の輸送を担った中核駅を後世に残して、レトロな街並みとともに観光振興に役立てるべきだ」と訴えている。 直方駅は明治から昭和にかけて、筑豊炭田の石炭を積み出し港の若松港(現北九州市)に運び出す集積拠点として発展した。現駅舎は1907年の鉄道国有化に伴って建築された。木造平屋で、玄関部分は装飾が施された木柱と御影石で支える重厚な造り。 建て替え工事は、直方市の駅前周辺整備事業と並行してJR九州が進めており、今春に

    usataro
    usataro 2011/01/14
    こういう建物は壊すと取り返しがきかない。
  • タモリの日本住宅変遷史 - テレビの土踏まず

    11月18日(木)に放送されたNHK総合「ブラタモリ」は、「日住宅をブラタモリ」。 これまでのように都内の一地域に焦点を絞ってブラブラするのではなく、日住宅が江戸から昭和にかけてどう移り変わっていったのか、その変遷をたどっていました。 タモリNHK久保田祐佳アナが、江戸、明治、大正、昭和初期、昭和30年代とさまざまな時代に建てられた家を訪ねて、日人の住まいの変化を追う。 その模様をここでも振り返ってみます。 オープニングで久保田アナと街角をブラブラするタモリ。 今日は根津に来てます。根津の路地。 これはすごいよー、この大木。樹齢すごいですよね。 途中で折れたかなんかしてまた生えてきて。 路地にバカーッとああいうのがあると、ものすごいインパクトですよね。 民家の玄関になぜかデビルマンのフィギュアが置かれているのを発見。 はぁ〜……。 デビルマン、これ活躍できないよねぇ。 (近所の

    タモリの日本住宅変遷史 - テレビの土踏まず
    usataro
    usataro 2010/11/20
    視聴・録画済。これはおもしろかった。
  • 「空中茶室」の遺構発見 京都・石清水八幡宮 - MSN産経ニュース

    江戸時代の学僧・書家で茶道の大成者の1人、松花堂昭乗(しょうじょう)が暮らした宿坊「瀧坊(たきのもとぼう)」の遺構が京都府八幡市の石清水八幡宮境内で見つかり、4日、同市教委が発表した。 合わせて崖(がけ)の斜面から張り出した「懸(かけ)造(づく)り」の茶室「閑雲軒(かんうんけん)」とみられる建物の礎石も発見された。地面から床までの高さは6メートル以上で、茶室としては類例のない構造だった可能性が高いという。 瀧坊は男山の中腹に位置。昭乗は17歳で坊の僧となり、寛永4(1627)年に住職に。小堀遠州から茶道を学んだとされる。 発掘調査では閑雲軒の床を支えていたとみられる3基の礎石が確認された。崖面からは約8メートルせり出しており、長い柱で床を支える「空中茶室」だったことが分かった。 茶室からは京都盆地が一望できたとみられ、市教委は「清水寺の舞台のような構造で、雄大な景色を見ながらお茶を楽し

    usataro
    usataro 2010/11/06
    瀧本坊の発掘らしい。懸造の茶室なんてあったんだ。でも発掘とかが松花堂昭乗関係に偏ってるような気がする。
  • asahi.com(朝日新聞社):軍艦島で同窓会 学校跡地に68人「よく残っていた」 - 社会

    端島小中学校跡地を訪れた卒業生たち=24日午前8時49分、長崎市高島町、金子淳撮影端島小中学校跡地を訪れた卒業生たち=24日午前8時50分、長崎市高島町、金子淳撮影  海底炭鉱の島として栄え、1974年の閉山で無人となった長崎市沖の端島(軍艦島)に24日、島の小中学校の卒業生68人が上陸し、学校跡地まで入った。  上陸したのは、端島小中学校同窓会の52〜86歳の人たち。今回は市から特別に許可を得た。7階建ての校舎は波や風雨にさらされ、基礎がむき出しになった所もあるが、卒業生たちは「2階の理科室でよく遊んだ」「忘れ物をすると隣のアパートから学校の屋上に投げてもらった」と、学校生活の思い出を次々とよみがえらせていた。  「島がすべてで、宇宙だった」。端島中を60年に卒業した埼玉県の佐藤多門さん(66)は今回が閉山後初めての上陸。「校舎がよく残っていたと思うが、このまま壊れていくばかり。かわいそ

    usataro
    usataro 2010/10/26
    僕の母親も行ったらしい。普通は入れない運動場まで行ったようだ。雨が土砂降りだったそう。
  • 東京の近代建築、30年で1611件消える : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    明治から戦前にかけて建てられた東京23区内の近代建築が、30年前の4分の1近くに減少したことが、都内の研究グループ「歴史文化のまちづくり研究会」の調査でわかった。 9日から富山市で開かれる日建築学会の大会で発表する。 1980年に同学会がまとめた「日近代建築総覧」に、23区内の近代建築として2196件が掲載されている。 このうち、同研究会が2000年にまとめた調査で残存を確認していた830件について、昨年10〜12月に改めて調査した。その結果、建物が残っていたのは585件で、80年の26・6%にまで減った。 解体が進む中央区立明石小学校のように、調査時点で建物が残っていたため、残存と数えられているものもある。

    usataro
    usataro 2010/09/04
    これだけ古いものを大切にしない国もちょっと異常な気がする。
  • asahi.com:商館倉庫 苦心の復元-マイタウン長崎

    usataro
    usataro 2010/08/21
    「「平戸オランダ商館」倉庫の外観がほぼ完成」
  • 東京新聞:明石小の解体始まる 区、「重文相当」振り切り:社会(TOKYO Web)

    東大震災を教訓に建てられた「復興小学校」の最初期の一つ、東京都中央区立明石小学校(同区明石町)校舎の解体工事が十日、始まった。日建築学会が「国の重要文化財に相当する」と評価し、研究者や卒業生らは工事の中止を求めていたが、区は予定通りに計画を進めた。 建て替えによる新校舎は、二〇一二年七月に完成する予定で、事業費は四十七億二千万円。校舎は現在の基準でも耐震基準を満たしており、建て替えの理由について、区は「教育環境の向上」と説明している。 同日、校内の不要物を撤去したり、校庭の木を切ったりする作業に着手。今月下旬には工事用通路を確保するため、半円形の窓や列柱が特徴とされる玄関などが取り壊される見通し。復興小は、旧東京市が大正末期から昭和初期にかけ百十七校を、耐震性に優れた鉄筋コンクリートで整備。現在、他の施設に転用されたものも含めて十九校が現存し、うち十校が同区に集まっている。(東京新聞)

    usataro
    usataro 2010/08/12
    固有の歴史性をもった建築に子どもたちが触れること自体、他では絶対に真似できない貴重な教育環境だと思う。そういう意味では、「教育環境の向上」どころか貴重な教育環境や資源の破壊だ。
  • asahi.com(朝日新聞社):戦災逃れたモダンな「復興小」解体か保存か 東京・中央 - 社会

    丸い柱やアーチ形の窓が特徴の中央小学校(旧鉄砲洲小)=東京都中央区丸い柱やアーチ形の窓が特徴の明石小学校=東京都中央区  関東大震災後の1920年代後半に東京都内に建てられ、モダンな外観が特徴の「復興小学校」が今秋に取り壊される。中央区にある明石小、中央小(旧鉄砲洲小)の2校舎だ。卒業生や建築家は「重要文化財の価値がある」と保存を求めているが、区は「老朽化」を理由に、計画通り解体する方針だ。  23年の関東大震災で被災した117校の小学校を、当時の東京市が再建した。こうした校舎は復興小学校と呼ばれている。  防災に配慮した鉄筋コンクリート造りで、外観は当時流行の表現主義を採り入れ、丸い柱やアーチ形の窓など曲面を多用したデザインだ。現在も校舎として使用されている10校のうち、26年完成の明石小、29年完成の中央小を含む7校が、戦災を免れた中央区にある。  日建築学会によると、特に明石小は復

    usataro
    usataro 2010/08/09
    何でこういう建物を壊すなんて発想になるのか。保存活用を図るべきだろ。こういう歴史的建築をすぐ壊しちゃうから日本の街並みはいつまで経っても薄っぺらいままなんだよな。/昨日テレビでもやってた。
  • asahi.com(朝日新聞社):子規・漱石ゆかり「愚陀仏庵」、土砂に流され全壊 松山 - 社会

    土砂で押しつぶされた愚陀仏庵=12日午前10時17分、松山市一番町3丁目、田中誠士撮影崩壊前の愚陀仏庵=2008年2月、松山市一番町3丁目  12日朝、松山市の松山城の城山のふもとで土砂が崩れ、正岡子規、夏目漱石ゆかりの建物として復元されていた「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」(同市一番町3丁目)が押し流されて全壊した。松山市内では梅雨前線の影響で、12日午前6〜8時の間に降水量76ミリを記録していた。  愚陀仏庵は、漱石が旧制松山中学に赴任した時代の下宿先で、かつては市街地にあった。戦災で焼失し、愛媛県が1982年に復元していた。  同庵には一時、正岡子規が療養のために居候し、52日間漱石と同居したとされている。現在は、観光名所となっており、俳句愛好家が定期的に句会を開いていた。(田中誠士)

    usataro
    usataro 2010/07/12
    復元の建物だったのが救い。