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小林秀雄に関するushiwatatのブックマーク (7)

  • 九 「原始」について | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    人間にとって、「あたりまえ」とは何かを知って、「あたりまえ」に還れ、それが人生いかに生きるべきかを考えるための第一歩だと小林秀雄は教えた、そしてその還るべき故地として小林秀雄が見ていたのは、原始、古代であった……、と書いてきたが、ここで念のために言っておきたい、だからといって小林秀雄は、竪穴住居に憧れたり、狩猟・漁労を趣味道楽にしたりしていたなどというのではないのである。原始人のように、古代人のように生きるとは、天から授かった人間として生きるに最小限必要な身心のはたらき、それを最大限に活かして生きる、そういう意味である。 昭和四十七年九月、小林先生七十歳、私は二十五歳の秋であった。円地文子さんの「源氏物語」訳を新潮社から出すにあたり、記念の講演会を名古屋と大阪で催すことになって、小林先生にも「宣長の源氏観」と題した講演を行ってもらったことは先に書いたが、名古屋に続いた大阪での夜のことである

    九 「原始」について | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | 連載 | 考える人 | 新潮社
  • 十 君、この店、うまいよ | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    小林秀雄先生は、講演会が夜になるときは、会場の近くで徳利を傾けながら出番を待たれると前回書いたが、これにも付言しておきたいことがある。先生自身、ある講演のなかで、ちらっとそういうことを言っているからでもあるのだが、そこを短絡してか人づてに聞いてか、小林秀雄は酔っぱらって演壇に上がるんだってね、と、暗に不真面目だとでも言いたげな口ぶりで私に話題を振ってくる人がいるのである。むろん、そうではない。 小林先生の酒は、日によって、席によって、がらりと変わる。前回引いた「東京」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集所収)に、「元来、私は酒の上で癖が悪く、それは、友達が皆知っているところだが、当は、独酌が一番好きなのである」と書かれているとおり、三人とか四人とか、酒席に相手がいるとたちまち先生の独演会となって盛り上がる、だがそれが、往々にして「癖が悪い」酒になる。からむ、などという生やさしいものではな

    十 君、この店、うまいよ | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | 連載 | 考える人 | 新潮社
  • 『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』文庫解説 by 石原千秋 - HONZ

    「わかる」ことと「わからないこと」のはざまで 恥ずかしい思い出話からはじめよう。 私にとって小林秀雄の批評は高校生時代の愛読書だった。当時は文庫でかなり出ていたから、文庫にあるものはすべて読んだ。初期の「様々なる意匠」も当然読んだ。それで、文学青年でもあった担任の国語の先生に、「こんど、「ようようなるいしょう」を読みました」と、自慢げに報告した。一瞬間があって、先生は「そうか」とだけ言った。 大学生になればさすがに、これはこの批評が書かれた当時流行していたイデオロギーを「さまざまなる意匠」にすぎないと喝破した、小林秀雄の原点をなした批評だとわかった。高校生時代の恩師の「そうか」という一言がここで効いた。恩師が賢しらに「さまざま」だと訂正しなかったことが、私のその後の理解を深めたように思う。 教育は、こういうものかもしれない。今度、小林秀雄の「対話集」を読みなおして、彼の放言に近い言葉の数々

    『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』文庫解説 by 石原千秋 - HONZ
  • 哲学科教員ブログ: 橋本治『小林秀雄の恵み』みたび――あるいは山田晶先生の過剰な訳について

    アウグスティヌスの『告白』の第11巻は天地創造をめぐる時間論を扱ったことで有名であるが、その第10章の冒頭を山田晶先生は次のように訳しておられる。 《私たちにむかって、「天地を創造する以前、神は何をしていたのか」と反問する人々は、じっさい、古い肉的な誤謬に満ちているのではないでしょうか。》(中公バックス版410ページ) この文章中の「古い肉的な誤謬」について先生は次のような注を付けておられる。 《アウグスティヌスは、新しい酒と古い皮袋のたとえを解釈して、「古さ」とはキリストの助けをこばみ、すべてのことを物質的なしかたでしか解することができず、聖書の霊的な意味を悟りえない「肉的な人間」をさすという(『説教』267)。ここでとりあげられる創造に関する異議も、そのような肉的人間の立場から提起されている。》(同前、411ページ) 神の天地創造の瞬間をまるで劇のように外から眺め創造以前の神を問う質問

    哲学科教員ブログ: 橋本治『小林秀雄の恵み』みたび――あるいは山田晶先生の過剰な訳について
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/05/18
    山田訳『告白』の「過剰な翻訳」と、宣長の古今集の「現代語訳」について。さらにその宣長について述べる小林秀雄と、小林を「じいちゃん」として語る橋本治の関係。「おじさん」としての批評家像にも広がるか。
  • 坂のある非風景 正しさはどこにあるのか

    評論家だって忙しいんだ、いちいち作品なんて読んでいる暇はない、といったことを小林秀雄が言っていて、批評を作品化するという小林の業績は、最終的には、作品にならない、作品に劣るしかない批評という宿命を明るみに出してしまった。対極には平野謙がいて、彼は徹底的な推理癖によって作品に深さを与え、批評が批評として立つ地平を定め、その分限を打ち立てた。作品をだしにして自分を語ることと自分を消し去ることによって作品や作家を語るというこの両極に挟まれた狭い空間が現在の批評の空間となっていて、そこを突破し解体するような第三点はいまだ出現していない。 小説なんて好き勝手に読めばいいものだが、そういった自由こそが、批評の読みに比べ、比較にならないほど狭い世界で、不自由極まりない世界だということは言っておきたい。個人的な好悪や感性の幅はあまりに狭く、その貧困がブログには露骨に現われているように見える。一瞬で「よかっ

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/21
    |小説なんて好き勝手に読めばいいものだが、そういった自由こそが、批評の読みに比べ、比較にならないほど狭い世界で、不自由極まりない世界だということ|正しさとは|遠い未来、無限遠点から射してくる光| >Idee
  • 筑摩書房 ウェブ時代をゆく メイキング・オブ・『ウェブ時代をゆく』

    2007年11月14日、梅田望夫さんによる『ウェブ時代をゆく――いかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書)の刊行記念講演会が、 丸善丸の内店3F日経セミナールームで開催されました。以下はその講演の抄録です。 に囲まれて育ちました。が好きです。子どもの頃、当時の日橋の丸善に、作家だった父に連れられて始終きていましたから、今日丸善でお話をするというのはとても感慨深いです。そういう環境で育ったので、には特別な思い入れがあります。特に日の出版をめぐる文化が好きで、出版社の編集者の人たちとか書店でを売っている人たち、に敬意を抱きながら日々生活をしている、そういう人たちやそういう文化が好きです。ある偶然でものを書くようになりましたが、職業作家ではありませんから、を書くということは、自分の人生にとって突然訪れた大きなイベントで、を書くことに過剰なエネルギーをつぎ込んでしまいます。 『ウ

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/16
    丸善での講演。『ウェブ時代をゆく』のロールモデル・福澤の著作について、梅田人生論、「やめることを決める」という方法論など。|どれも中途半端。でもそういう総括の仕方しかないというのはさびしい| CNETに全文。
  • 小林秀雄賞『私家版・ユダヤ文化論』 - 新・整腸亭日乗

    拙ブログ2006−07-29で取り上げた『私家版・ユダヤ文化論』(文藝春秋,2006)が、「第6回小林秀雄章」を受賞した。 私家版・ユダヤ文化論 (文春新書) 作者: 内田樹出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2006/07/01メディア: 新書購入: 11人 クリック: 169回この商品を含むブログ (176件) を見る 内田樹のいう「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの」という発想は、レヴィナス的であり、内田理論の根幹をなす。 とまれ、第6回小林秀雄賞が内田樹『私家版・ユダヤ文化論』であったことは、新書版であろうと内容次第で、判断されるという良い前例を残した。「小林秀雄賞」には不思議な因縁を感じる。第4回茂木健一郎の『脳と仮想』以来、第5回の荒川洋治『文芸時評という感想』に続いて、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』は、すべて拙ブログでとりあげている。上記以外でも受賞作を拙ブログでとりあ

    小林秀雄賞『私家版・ユダヤ文化論』 - 新・整腸亭日乗
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/07
    |受賞したから読むのではなく、好きな本を読んでいると、しばらくしてその本が「小林秀雄」を受賞する。これは読書人にとって、喜ぶべきことだろう。小林秀雄賞創設に感謝したい、とつくづく思うのだ|
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