人間にとって、「あたりまえ」とは何かを知って、「あたりまえ」に還れ、それが人生いかに生きるべきかを考えるための第一歩だと小林秀雄は教えた、そしてその還るべき故地として小林秀雄が見ていたのは、原始、古代であった……、と書いてきたが、ここで念のために言っておきたい、だからといって小林秀雄は、竪穴住居に憧れたり、狩猟・漁労を趣味道楽にしたりしていたなどというのではないのである。原始人のように、古代人のように生きるとは、天から授かった人間として生きるに最小限必要な身心のはたらき、それを最大限に活かして生きる、そういう意味である。 昭和四十七年九月、小林先生七十歳、私は二十五歳の秋であった。円地文子さんの「源氏物語」訳を新潮社から出すにあたり、記念の講演会を名古屋と大阪で催すことになって、小林先生にも「宣長の源氏観」と題した講演を行ってもらったことは先に書いたが、名古屋に続いた大阪での夜のことである