(写真上)登録有形文化財にするよう答申された檜物屋酒造店の旧店蔵(文庫蔵)外観(写真下)仕込蔵内部2階(ともに二本松市教委提供) 国の文化審議会は17日、二本松市の檜物屋酒造店の「旧店蔵(文庫蔵)」「仕込蔵」の2件を登録有形文化財(建造物)にするよう永岡桂子文部科学相に答申した。ともに土蔵造り2階建てで、奥州街道の歴史的景観を形成していることが評価された。登録されれば、県内の登録有形文化財(建造物)は計266件となる。 旧店蔵は1874(明治7)年ごろに建てられた。外部から容易に侵入されないよう作られた奥州街道の枡形(ますがた)に面している。土蔵などに用いられる壁塗りの様式の一つ「海鼠(なまこ)壁」などのほか、内部には現代のシャッターのような「摺上戸(すりあげど)」を残す。 仕込蔵は1930(昭和5)年に建てられた奥行きのある建物で、周囲から見える街道側を寄棟(よせむね)造りの屋根にしてい
平成29年9月から一般の公開及び利用を開始しました。 臨江閣の利用や団体での観覧については、事前の申込が必要です。 観覧は無料、部屋の利用に際しては原則有料となります。 使用料や提出書類の書式は、このページ内の「貸館利用のご案内」の項目をご参照ください。 臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成る、国指定の重要文化財です。 本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。 別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。
県都の中心部に、異彩を放つ外観のビルがそびえ立つ。地上10階、地下1階。コンクリート打ちっぱなしの外壁や、規則正しく並ぶ大きな窓が印象的なこの建物の名称は「栃木県開発センタービル」(宇都宮市栄町)。県土地開発公社の旧本社ビルで、1972年の完成から築50年が経過する。 下野新聞は8月、ビル跡地について公社がマンション分譲の穴吹工務店(高松市)と売却契約を結んだと報じた。老朽化した建物の解体と、市街地活性化に資する跡地利用を条件に成立した珍しいケースとなった。 建物の1階は、壁がなく柱だけで構成された吹き抜けの空間の「ピロティ」となっている。その上の2階部分はまるで宙に浮くようにコンクリートが張り出し、てっぺんにはガラス張りの小さな構造物も見える。 「一度、中を見たかった」 「かっこいい建物なので解体は残念。一度、中を見たかった」。9月下旬、宇都宮市在住のゆりこさん(投稿ネーム)から、下野新
事例作成日 2022年01月31日 登録日時 2022/06/28 10:05 更新日時 2022/06/28 13:13 下記の資料に、焼失する前の土津神社を描いた絵図が掲載されていました。 資料1~3に掲載の絵図3点については、いずれも福島県立博物館で所蔵または寄託されているようです。また3点とも土津神社のホームページ(https://hanitsujinja.jp/)でも画像が掲載されているものでしたので、既にご確認済みかもしれませんが、ご紹介いたします。 インターネットの最終確認日は2022年2月4日です。 資料1 『史跡会津藩主松平家墓所保存整備事業報告書』 猪苗代町教育委員会生涯学習課図書歴史情報館係/編 猪苗代町教育委員会 2017 付章 2.絵図 p.187(1)土津神社絵図 「土津神社の境内と、その周辺を描いた近代の絵図。」とあり。 絵図の全体図の写真が掲載されており、キ
東播工業高校(兵庫県加古川市東神吉町神吉)建築科の生徒が、老朽化で存廃が議論されている旧加古川図書館(同市加古川町木村)の建物を、最新鋭のレーザースキャナーで計測した。高密度な点群データ(空間での位置などの情報を持った点を集めたデータ)により、3次元の座標でパソコン画面に建物を再現。データは、VR(仮想現実)への活用や、3Dプリンターでの立体造形物の製作などに生かす。(斉藤正志) 三脚の上で、箱型のレーザースキャナーがゆっくりと動く。測量を効率的に短時間でできる先端機器で、レーザーを照射し、反射する時間や角度によって1秒間に最大200万点のデータを収集。360度の高密度な点群データで、位置情報を測る。 同校建築科の大歳浩功(ひろのり)教諭(58)が担当する班の3年生8人が5~6月に計5回、旧加古川図書館で活動し、計150カ所からレーザーを当てた。建物の外からだけでなく、市教育委員会の許可を
1919年、ドイツに設立された美術学校「バウハウス」。その名を聞いたことがある人も多いでしょう。絵描や建築、写真などに力を入れ、ナチスの弾圧で1933年に閉校するまで数々のクリエーターなどを輩出。それだけでなく、理念や表現方法は今もなお世界中の建築やデザインなど、さまざまな分野に多大な影響を及ぼしています。 そして、創設100周年を迎える今年、記念して造られたバスがあります。 道路を走るバスは中の様子が外から見てもわかるようなつくり。このガラスのカーテンウォールは、同校が以前ドイツのデッサウ(10年ほど前に隣接するロスラウと合併)にあった時の建物の外観に似せたもの。 バスの中ではワークショップやエキシビションが行われたり、バウハウスの歴史などを記した内容の本を並べた図書スペースまで用意。ナンバープレートもアルファベット表記の部分にこだわりが見えて、洒落ています。 すでに1月からドイツ国内の
東京藝術大学が130周年を迎えるのを機会に、今まであまり光が当てられてこなかった戦時下の芸術、特に戦没学生の作品に焦点を当てる。 美術学部の学生についてはかなり調査が進み、長野県上田市には「無言館」という戦没画学生の作品の展示施設も作られている。しかし音楽の場合は、美術と違って形に残らないという面もあり、調査解明が遅れている。それでも昨年、本学奏楽堂で、徴兵されフィリピンで自決した作曲科学生、村野弘二さんのオペラ「白狐」のアリアが演奏されるなど、少しずつではあるが注目を集めつつある。 本学では大学史史料室の橋本久美子学術研究員を中心に資料の調査、蒐集が行われており、この機会に戦没学生の作品を中心に、戦時下における芸術活動を演奏会とシンポジウムによって検証する。 シンポジウムでは、学術的に戦没学生を扱うことの意義と史料のアーカイブ化の重要性を確認し、コンサートでは、志半ばで戦地に赴かなければ
つくばセンタービル この連載でも避けては通れないであろう、つくばセンタービル。 つくば市によるリニューアル問題の是非にはさほど興味を示さなかったが、そもそもこの街の多世代に親しまれているのかどうか、磯崎新アトリエのこの作品がなぜ「センター」「シンボル」なのか、若い世代の人々がどのように感じているのかに関心を寄せる。 画期的な事件 建築から都市へ、市民が眼差し開く 【鵜沢隆 筑波大名誉教授コメント】「つくばセンタービルの改修計画が、最終的に室内の改修のみに限定された(2021年12月17日付)ことは、建築の社会的、文化的、都市的文脈が認められたことで、建築に市民権が与えられた。つくばセンタービルは、筑波研究学園都市の中心的、象徴的施設であったが故に、その建築の保持が求められたということを改めて確認しておきたい。都市とは切り離せない建築の存在が、この建築の保持の意識を市民に促した。市民に共有さ
日本現代建築の歴史で特別な位置を占める東京の中銀カプセルタワービルが解体される/Yoshikazu Tsuno/AFP/Getty Images 日本の現代建築として最も特徴的な建物の一つ、中銀(なかぎん)カプセルタワービルが、月内に解体される見通しとなった。建物の新たな所有者らが明らかにした。 人目を引く作りの同タワービルを巡っては数年にわたり不確かな状況が続いていたが、今回の決定がそれに終止符を打った形だ。かつては都市生活の未来像を提示していたその構造物も、最近は破損に見舞われていた。 1972年に完成したタワービルは、工場組み立ての144のユニットをコンクリート製の中核部分2棟の周りに配置したデザインとなっている。個々のユニットは広さ10平方メートルの「カプセル」で、舷窓(げんそう)を思わせる丸い窓が付いているのが特徴だ。カプセル内にはそれぞれ電化製品や家具が備え付けられている。 タ
「日本一の里山」と呼ばれる兵庫県川西市黒川地区でテレビドラマの舞台にもなってきた市立黒川小学校が、1977(昭和52)年に講じられた異例の「無期休校」措置から45年を経て、ついに廃校されることになった。地域の子どもが減り続け、市教育委員会は再開の可能性がなくなったと判断。県内最古級の木造校舎などは2022年度に整備を始める「市黒川里山センター」(仮称)の一部になる。(久保田麻依子) 市教委が3日の市議会厚生文教常任委員会で明らかにした。明治初期に設立した黒川小は、休校期間を含めて約150年の歴史に幕を下ろす。 黒川地区では終戦の1945(昭和20)年をピークに人口が減り、77年には「一庫(ひとくら)ダム」の建設で校区の一部が水没することが決まる。既に児童は19人になっていた中、市教委は閉校を検討するも「子どもが再び増えたら再開してほしい」という地元の声に応えて無期休校とした。その後、現存す
拡大 ㊤解体せずに活用策を探ることになった新温泉の前に立つ永見明子さん=24日、熊本県人吉市、㊦新温泉の外観=24日、熊本県人吉市 昭和初期の木造建築で、昨年7月の熊本豪雨で浸水被害に遭った熊本県人吉市の共同浴場「新温泉」。公費での解体を申請していた3代目の永見明子さん(67)は、思い直して建物を保存・活用する道を探り始めた。浴場としての営業再開は諦めたものの、「温泉街の歴史を後世まで伝えたい」と思案している。 新温泉は祖父が1931年に開業。創業時の外観をほぼ残し、昔ながらの番台、レトロな体重計やマッサージチェアが残る脱衣所、昭和期の広告看板などが県内外の温泉ファンから人気を集めていた。永見さんは中学生から店を手伝い、亡き父が病気になった二十数年前に3代目を継いだ。 昨年7月4日の豪雨では球磨川支流の堤防が決壊し、本流との合流点近くにある新温泉周辺も濁流に襲われた。向かいの自宅で母親(9
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