事の始まりは昨年10月、私・りせんと田んぼ氏が1枚の絵葉書に目を奪われた事でした。 「上より見たる大江橋及控訴院付近」 この絵葉書はかつて堂島川沿いにあった大阪控訴院について調べている際に見つけたものです。 右奥で凛と高塔を天に伸ばす赤レンガの控訴院の姿は、当時の景観を壮麗なものにしていた事でしょう。 絵葉書を眺めるうちにふと、中央の淡いグリーンで彩られた建物が目に留まりました。 三角屋根やいくつかの尖塔を持ち、それがどこか欧州の古城の一部かのような雰囲気を感じさせています。建物の規模も決して小さいものではなく、遠近感を考慮しても横幅は控訴院の半分以上はあるようです。 2人共専門的な知識を持ち合わせている訳ではありませんし、これまでに知り得た、かつて中之島に存在した建築物の中でこの特徴的な外観を持つものは思い当たりませんでした。 果たしてどんな用途の施設だったのか。誰が建てて、どんな内装で
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兵庫県加古川市は、同県の景観形成重要建造物に指定されている「市立加古川図書館」(加古川町木村)から、図書館機能を移転させる方針を明らかにした。建築から約85年たち老朽化が進むため、建物の今後は存廃も含めて未定。保存や活用に向けた検討を続けるが、担当者は「現在のように市民が出入りできる形は難しい」と話している。 公共施設の大幅削減を目指して策定中の再編計画案で示した。 市内には同図書館と中央図書館(平岡町新在家)に加え、ウェルネスパークと海洋文化センターにも図書施設がある。市によると、加古川図書館の移転先は加古川町内などで探す方針。同館の年間貸出者数は延べ約10万2700人。 同図書館の建物は1935(昭和10)年、旧加古川町の公会堂として建設され、70年代から図書館になった。半円窓のステンドグラスなどが特徴で、昭和モダンの雰囲気を伝える建物として市民に親しまれている。近年は雨漏りや耐震不足
東日本を襲った台風19号で、浸水や雨漏りがあった図書館では書籍のかび被害などが発生。修復に時間がかかったり、そもそも修復自体が困難なケースが相次いでいる。文化財の被害も国指定のものだけで250件を超えた。専門家は国民の共有財産の修復や保存について、「優先順位」をつけていく必要性を強調した。 文部科学省によると、19号で浸水や雨漏りなどの被害が報告された公立図書館は、13都県で計108施設に上った。大学などの学校図書館を含めれば、さらに多数に上る。 多摩川に近い東京都市大世田谷キャンパス(東京都世田谷区)では、図書館棟の地下1階がフロアごと水没。被害を受けた蔵書は約8万3千冊に上った。 地下1階から水が引き、職員が書庫には入れたのは台風通過の1週間後。書棚はゆがみ、書籍は床に散乱し、泥だらけに。かびが生えているものも多かった。 同大では図書館に水が流れ込まないように、玄関辺りから道路側に向か
1929年12月にリノベーションが完了したル・コルビュジエ設計の難民避難船「アジール・フロッタン」は、救世軍の依頼により第一次世界大戦の影響でパリ市内に多くいた戦争難民を収容するために生み出されました。その後、世界恐慌や第二時世界大戦による難民を多く受け入れ、子供たちの夏のイベントなどにも活用されてきましたが、1990年ごろにはその使命を終えていました。 2006年には救世軍から船を譲り受けた有志により、後世に残すための修復が始まり、2008年には、修復に協力していた日本人建築家遠藤秀平により修復工事のためのシェルターがデザインされ、フェスティバルドートンヌにおいて発表されました。その後は、経済不況もあり近年まで細々と修復工事が進められ、2015年に歴史的コンクリート構造物として文化財指定を受けました。2017年には内部の整理も進み、日本人建築展を行う企画が進められてきましたが、2018年
スイス人建築家ル・コルビュジエが手がけた唯一の船「アジール・フロッタン」が、現在パリのセーヌ川に沈んでいること、そして、それを再び浮上させる計画が進行中であることは、一般的にはあまり知られていない。 世界恐慌の年、1929年に難民救済のための避難船として活躍をしていた船は、なぜセーヌ川に沈んでしまったのか。 そして、この船を再び浮上させる「アジール・フロッタン復活プロジェクト」に、なぜ日本人建築家・遠藤秀平が関わっているのか。 遠藤氏に話を聞いた。始まりは、「1本の電話だった」という。(以下、遠藤氏談) 偶然の重なりで、私は今このプロジェクト関わっています。 キリスト教系の慈善団体「救世軍」の所有物であったアジール・フロッタンを買い取り、新たな文化施設へ蘇らせようと5人の有志のフランス人が集まったのは、2005年のこと。 彼らが集まった話し合いで最初に出たのが、「このプロジェクトには、絶対
【東京】玉城デニー知事は1日、沖縄が本土復帰50周年を迎える2022年までに、焼失した首里城の再建計画を策定する考えを示した。首相官邸で菅義偉官房長官に早期再建の支援を求めた後、記者団に述べた。安倍晋三首相は同日「政府として再建に取り組むことを約束する」と述べ、国が再建費を負担する方針を示した。
火災現場となった首里城の北殿(左)、正殿(中央)、南殿(右)、奉神門(手前の燃えていない建物)=31日午後1時32分、那覇市首里 【東京】31日の首里城焼失を受け、政府内では再建に向けた検討が加速している。内閣府によると、焼失前の首里城の復元にかかった総事業費は1986~2018年度の33年間で約240億円に上る。再建には相当の期間と費用がかかることも予想される。沖縄観光の面でも首里城の存在は大きいため、政府関係者は「絶対に復元させないといけない」と話し、早期再建に意欲を示している。 再建に向けては多額に上ることが見込まれる費用負担が大きな焦点になる。 内閣府によると、今年2月に首里城の管理許可を県に与えるに当たって県と国が結んだ取り決めでは、小規模な修繕は県が、大規模な修繕は国が担うこととされた。内閣府関係者は「今回はどう見ても大規模だ」との認識を示し、国が前面に出て再建に取り組む意向を
炎を上げて燃える首里城 (c)朝日新聞社 沖縄のシンボルである世界遺産・首里城が31日未明、火事によってほぼ全焼した。首里城は2000年に世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産として登録された施設の一つ。沖縄のシンボルで、観光名所でもあった。 【写真】過去に焼失 増上寺の知られざる苦難 首里城正殿は1925年に国宝に指定されたが、1945年に沖縄戦で焼失。戦後は跡地に琉球大が建設された。琉球大のキャンパス移転にともない、1989年に復元工事に着手。1992年に首里城公園の一部が開園、2000年に首里城跡などが世界遺産に登録された。 日本の文化財は木造建築が多く、炎との戦いの歴史でもある。 太平洋戦争時には、名古屋城や広島城、増上寺(東京都港区)などが焼失。松山城は、1933年に放火によって大天守以外の多くを焼失。焼け残った部分も1945年の空襲で被害を受けた。さらに、19
大阪の難波にある「なんばパークス」の南端、少し前の記憶がある人は大きな平面駐車場として覚えている人がいるかと思います。もっと具体的に言えば、「ヤマダ電機LABI1なんば店」の横、南海電車との間のスペースです。 そこに、タイ資本の「センタラグランドホテル大阪(仮称)」が作られるようです。 出典:難波中二丁目における開発について 建設工事が始まり、基礎固めのために地面を掘ってみたところ、おそらく誰も予想もしなかった意外なものが「発掘」されることに。 画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ) なんじゃこりゃ!!! 空の上から松田優作の有名なセリフが聞こえてくるような「遺跡」が。それも町のど真ん中に…。 果たしてこれは何時代のものか、いつのものか…江戸時代?いや平安時代か、いや数万年前の超古代文明…なわけないか。 実は私、こういう「遺跡もん」が大好
油壺湾(三浦市)に臨む「東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所」(同市三崎町小網代、通称・三崎臨海実験所)の旧本館と水族室標本展示室が、11月から解体される。国内初、世界で2カ所目の海洋生物学の恒久的な臨海実験施設として誕生し、研究史に大きな足跡を残してきた。だが老朽化には勝てず、新たに建てられる「研究教育棟」にその機能を引き継ぎ、80年超の役目を終える。 建築構造学の父 内田祥三が設計 解体される、三崎臨海実験所の旧本館=三浦市三崎町小網代 三崎臨海実験所は1886年、同市三崎地区に設立された。97年に、相模湾に面する油壺湾沿岸の現在地に移転。多様な海洋生物が生息する同湾をフィールドに、国内外の研究者や学生が利用した。かつて実験所で研究した理学博士の故・磯野直秀さんの著作によると、種名に「ミサキギボシムシ」と三崎の地名を付けられた新種や、構内の岩場の海藻に付着した「ムシクラゲ」といった
京都市上京区の住宅解体工事の現場に、大久保利通の茶室「有待庵(ゆうたいあん)」が残っていたことが確認された。市が30日発表した。幕末に大久保が住んでいた旧邸跡にあり、工事中に歴史研究者が発見し、市に連絡。市は所有者から部材などの寄付を受け、移築した上で保存・活用する方針だ。 有待庵をめぐっては、大久保の三男利武氏による1942年の講演記録で、大久保が1866年に邸宅を構えた際、薩長同盟が結ばれたとされる薩摩藩家老、小松帯刀(たてわき)邸「御花畑(おはなばたけ)」から移築されたことは分かっていたが、その実在は未確認だった。有待庵は薩長同盟以降の政治的な密議の場となり、岩倉具視とも会談していたとされる。 市文化財保護課によると、有待庵は約3畳の平屋建て。アカマツの床柱など古材が使われている。同課は歴史的価値が高いとみて、所有者に工事を一時止めてもらい、市の予算で移築を前提に解体する方針を決めた
平清盛ゆかりの六波羅邸跡で出土した軍事防御用の堀跡。土留めの石垣も施されている(16日午後2時25分、京都市東山区) 平安時代末期に平清盛ら平氏一族が屋敷を構えた「六波羅邸」の堀跡が京都市東山区で見つかったと、民間調査会社の文化財サービス(伏見区)が16日発表した。清盛が活躍していた時代の遺構とみられ、六波羅邸に関わる屋敷跡の確認は初めて。敵の侵入を防ぐために掘られたとみられ、軍事防御用の堀では京都最古の出土例という。 調査地は東山区五条通東大路西入ル北側の浅見五郎助窯跡。不動産開発に伴って約千平方メートルを発掘している。 調査会社によると、堀跡は東西15メートル、深さ1・3メートルの逆台形で幅は上面3メートル、底面1・8メートル。水も張られていたとみられ、南側には幅1・5メートルの土塁もあった。堀の西側5メートルは早くに埋め立てられ、埋めた部分と堀との境には土留めの石垣が築かれていた。石
仙台藩4代藩主伊達綱村(1659~1719年)が母三沢初子の冥福を祈って建立し、東日本大震災の影響などで劣化が進んだ仙台市宮城野区榴岡の市登録文化財・釈迦堂が全面修復されることになり、解体工事が始まった。約320年前の創建以来初めての大修復で、完成当初に近い姿に復元する。2021年の作業完了を目指す。 釈迦堂は仙台藩を揺るがした寛文事件(伊達騒動)と関わりが深く、母子愛を象徴する歴史的建造物として知られる。高さ11.8メートル、幅・奥行きは7メートル。当初は現在のみやぎNPOプラザ(宮城野区榴ケ岡)付近にあったが、1973年、宮城県図書館の建設に伴って初子の菩提(ぼだい)寺である日蓮宗本山・孝勝寺の境内に移った。 さらに本堂の建設などに伴って境内で移築を繰り返し、震災では壁などが破損して倒壊の恐れが生じた。元は瓦屋根で白木造りだったとされ、周囲に縁側が張り巡らされていたが、移築を繰り返すう
ゴールデンウイーク限定で公開されるボーリズ建築のウォーターハウス記念館=滋賀県近江八幡市で、2018年4月28日、蓮見新也撮影 滋賀県近江八幡市の国登録有形文化財でボーリズ建築のウォーターハウス記念館(池田町5)とアンドリュース記念館(為心町中)の2棟が26日~5月7日に特別公開される。 米国出身のウィリアム・メレル・ボーリズ(1880~1964)の建築はほぼ非公開。「中も見たい」というファンに応え年2回、実施している。 ウォーターハウス記念館は早稲田大講師として来日したボーリズの親友、ポール・ウォーターハウスの住宅。ボーリズに共鳴してキリスト教を布教し、一家で6年間住んだ。米国のコロニアルス…
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