タグ

医療と歴史に関するwerdyのブックマーク (2)

  • 医療の挑戦者たち 14 | 医療の挑戦者たち | 企業広告 | 企業情報 | Terumo

    一七八五年(天明五年)、華岡青洲(はなおかせいしゅう)は、京都での医術修行を終え、故郷である紀伊の国に戻ってきた。青洲は漢方の一種である古方を学ぶ一方、オランダ流外科を修めるなど、最先端の医術を身に付けた。しかし、それは医術の限界を痛感することにもなった。たとえば乳がんは、切れば患者の命が危ういとされ、当時は外科治療の対象ではなかった。 乳がん切除のような大手術は、全身麻酔をしなければ患者は耐えられない。青洲は麻酔の研究を始めた。先人の用いた麻酔薬の処方を改良し、延べ十数人のボランティアの協力を得て有効性と安全性を確かめた。母親とが投与試験に参加したとも伝えられている。 そして、ついに一八〇四年(文化元年)十月、青洲は六十歳の患者に対する乳がんの手術に挑んだ。患者に脚気(かっけ)と喘息(ぜんそく)があったため、四〇日以上もかけてそれらの治療を行うなど、青洲は慎重に手術前の準備を進めた。チ

  • 脚氣ハ果タシテヴィタミンB缺乏症ナルカ - NATROMのブログ

    脚気は心不全および末梢神経障害を来たす疾患で、明治から昭和にかけての日では、年間に2万人以上が死亡する年もあった。現在は、脚気の原因はビタミンB1欠乏であることがわかっているが、当時の日では、脚気の原因について激しい論争があった。ビタミン欠乏説に反対した医学者は、主に東大出身者であり、「事実よりも権威重視」「頭が固い」といった批判をされることがある。たとえば、東大病理学教授の緒方知三郎が、脚気の原因として中毒説ないし伝染病説を重視すべきで、「ビタミン欠乏が脚気の原因をなすとは到底信じられない」と述べたことに対して、後年、「(緒方は)あまり根拠のない仮説を過信したにすぎなかったのである」*1と評されている。 もちろん、権威を過信すると失敗するという一面はある。しかし、新しい学説に対し、保守的な立場を取る科学者もまた、科学の進歩のために必要なのだ。ある一つの研究で、新説が完全に証明されるこ

    脚氣ハ果タシテヴィタミンB缺乏症ナルカ - NATROMのブログ
  • 1