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WWⅡに関するwerdyのブックマーク (11)

  • <九大生体解剖事件>「戦争は人を狂わす」最後の目撃者語る (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

    1945年5月、大分、熊両県境に墜落したB29搭乗の米兵8人が次々と旧九州帝国大(現九州大)医学部に運ばれ、やがて死亡した。連合国軍総司令部(GHQ)が「類例ない野蛮さ」と表現した「九大生体解剖事件」。医学生として立ち会った福岡市の医師、東野利夫さん(86)は何を目撃し、何を思ったのか。「戦争は人を狂わせる。悲惨と愚劣しか残らない」。67年後の今、東野さんは改めて平和の尊さを訴える。 東野さんは1945年、同大医学部に入学。約1カ月後、配属された解剖学教室で、事件は起きた。「手術する場所を貸してほしい」。外科医から解剖学教室の教授に連絡があった。数日後、米兵の捕虜2人が運ばれてきた。麻酔がかけられ、肺の手術が始まった。透明の液体が体内に入れられたが、その液体が代用血液として試された海水だったことは後に知った。 実験手術だった。軍の立ち会いの下、4回にわたって8人に上り、うち2回を目撃

    werdy
    werdy 2012/08/16
  • ビールとタバコが大好物、第二次世界大戦で活躍したポーランド軍の勇敢なクマ「ヴォイテク二等兵」

    第二次世界大戦中ポーランド第2軍団第22弾薬補給中隊に所属し、激戦となったモンテ・カッシーノの戦いでは砲弾が飛び交うなか一度も弾薬箱を落とすことなく補給任務にあたったシリアヒグマのヴォイテクは、ポーランドでは英雄として知られています。 一兵卒として活躍するとともに、家を遠く離れたポーランド軍兵士たちの心を和ませる中隊のマスコット的存在として愛されたヴォイテクは、戦後共産圏となったポーランドを避けた中隊とともにスコットランドに駐屯し、エディンバラ動物園で1963年に死去したのですが、その最期の地となったエディンバラにヴォイテクを記念した像が建立されることになったそうです。 ヴォイテクが兵士たちと戯れる写真や映像などの詳細は以下から。Wojtek The Soldier Bear -  In the Ranks of Victors - Home Polish bear 'that fough

    ビールとタバコが大好物、第二次世界大戦で活躍したポーランド軍の勇敢なクマ「ヴォイテク二等兵」
  • ◆ 美しい壺日記 ◆ [集団自決訴訟][2ch]大江叩きの名無しさん自爆する

    border-width:5px;        /枠線の太さを指定 border-color:red;        /枠線の色を指定 border-style: solid;"> 【集団自決訴訟】 大江健三郎さん 「集団自決は日軍の強制。命令書があるないのレベルではない」「確信強まった。訂正は不要」★10 http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1194786308/ 727 :名無しさん@八周年:2007/11/12(月) 03:38:46 ID:Ed2SIKO20 あくまでも小説として、しかし、できるだけ歴史を検証しながら 作品を書いた司馬遼太郎の誠実さと比べると、 大江健三郎のあまりのペテン師・破廉恥に驚くばかりである。 774 :名無しさん@八周年:2007/11/12(月) 04:07:26 ID:0fYbQGdC0 >>7

  • 東條英機の側近的な三奸四愚ですがどういった人たちなんですかやっぱり腰巾着ですか? - 三奸鈴木貞一「背広を着た軍人」情報... - Yahoo!知恵袋

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1024102420 三奸 鈴木貞一 「背広を着た軍人」情報戦略の達人で、主として陸軍を代表する形で国政に関った。対米英強硬論者。野心家であり、自分から東條に接近している。A級戦犯。釈放後は自民党の黒幕の一人となっており、頭の切れる男だったのは確か。 加藤泊治郎 憲兵畑のエリ-ト。東條は憲兵や特高の力で、反対勢力を押さえ込んでおり、史実上の実績は無いが、懐刀として相当強権を持っていたはず。戦後ソ連の捕虜となり、病死。 四方諒二 同じく憲兵のエリ-ト。無事に終戦を迎える。 四愚 木村兵太郎 「ビルマの屠殺者」。東條の下で陸軍の権力を掌握していた。A級戦犯絞首刑。ただし、実際は大した事はやっておらず、あだ名にしても死刑にしても「過大評価」と見られている。軍指揮官としては、ビルマ戦

    東條英機の側近的な三奸四愚ですがどういった人たちなんですかやっぱり腰巾着ですか? - 三奸鈴木貞一「背広を着た軍人」情報... - Yahoo!知恵袋
  • JOG(151) 阿南惟幾~軍を失うも国を失わず

    [トップページ] [平成12年一覧][人物探訪][210.759 大東亜戦争:和平への苦闘] ---------------Japan On the Globe(151) 国際派日人養成講座 _/_/ _/ 人物探訪: 阿南惟幾~軍を失うも国を失わず _/ _/ _/ 土決戦を避け、全陸軍550万を終戦に導く _/_/ 責務は、一人の陸軍大臣の双肩にかかっていた -----------------------------------------H12.08.13 26,837部 ■1.もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら、、、■ 昭和20年8月11日、外電が日の降伏受入れ予想を報道 し始めると、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は次のような激 烈な電報を陸軍中央に送ってきた。 数百万の陸軍兵力が決戦を交えずして降伏するが如き恥 辱は、世界戦史にその類を見ず、派遣軍は満8年連戦連勝

  • みんなの経済新聞:日本人が知ってはならない歴史  戦後編 - livedoor Blog(ブログ)

  • 日中歴史共同研究 - 15年戦争資料 @wiki

    毎日特集:日中歴史共同研究報告書(要旨) 年表図判付 共同日中歴史研究報告書要旨・・・日中比較 時事日中歴史研究報告書のポイント 読売日中歴史共同研究の報告書要旨<1>…満州事変まで・・・日中比較 読売日中歴史共同研究の報告書要旨<2>…南京事件など・・・日中比較 産経【日中歴史研究】南京事件の日側論文(要旨) 産経【日中歴史研究】南京事件中国側論文(要旨) 要約をそのまま鵜呑みにしていいかどうかは、大いに疑問です。 南京虐殺(日中歴史共同研究・日側記述)抜粋原文 南京虐殺(日中歴史共同研究・中国側記述)抜粋原文 毎日日中歴史共同研究:戦後史部分(要旨) 年表図判付

    日中歴史共同研究 - 15年戦争資料 @wiki
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    werdy 2010/05/12
  • 日中戦争:憲兵の手紙424通公開 - 毎日jp(毎日新聞)

    展示されている手紙のコピー。便せんや原稿用紙に時に丁寧に、時に走り書きで書かれている=甲府市の山梨平和ミュージアムで、春増翔太撮影 日中戦争(1937~45年)の前線で憲兵の任務についていた山梨県龍岡村(現韮崎市)出身の五味民啓(たみよし)さん(79年死去)が当時家族に出した計424通の手紙が見つかり、甲府市内で公開されている。五味さんは戦争に懐疑的だったが、憲兵だったこともあって手紙は軍の検閲を受けなかったとみられ、「新聞記者のついて来る戦場は勝味のある場所です。新聞で伝わるのは、ほんの一部分」といった率直な記述が随所にある。専門家は「極めて史料価値が高い」と評価している。【春増翔太】 五味さんは旧制甲府中(現・甲府一高)に首席で合格したが、養父に反発して上京。会社勤めの傍ら中国語を学んで会話も堪能だった。製薬会社に勤めていた時に召集され、1937(昭和12)年9月、24歳で陸軍第149

    werdy
    werdy 2010/05/08
  • asahi.com(朝日新聞社):「カチンの森」秘密資料にアクセス殺到 ロシア実物公開 - 国際

    【モスクワ=副島英樹】ソ連スターリン体制下でポーランド人将校ら2万人以上が集団銃殺された70年前の「カチンの森事件」をめぐり、ロシア公文書館は28日、ソ連共産党中央委員会政治局の秘密資料の実物を専用サイトで初公開した。初日だけでアクセスは200万件を超えた。  スターリンら指導部が銃殺に同意した直筆署名入りの資料もあり、スターリン批判の姿勢を国内外に明確に示すメドベージェフ政権の狙いがうかがえる。  資料は「ファイルNo.1」と呼ばれ、「カチン事件はナチス・ドイツの犯行」と虚偽の主張をしてきたソ連時代は極秘にされていた。1940年3月の資料には、秘密警察の内務人民委員部(NKVD)のベリヤ長官が銃殺を提案する文書があり、スターリンやモロトフら政治局員の署名が記されている。  これらの秘密資料はソ連崩壊後の1992年、エリツィン大統領(当時)がポーランドのワレサ大統領(同)に写しを引き渡した

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    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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  • 「死の行進」写真ではなかった、65年ぶり訂正 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    【ニューヨーク=吉形祐司】第2次世界大戦中の1942年4月、フィリピン・ルソン島のバターン半島を攻略した日軍が、米軍やフィリピン軍の捕虜を炎天下で100キロ歩かせて多数の死者を出したとされる「バターン死の行進」の写真について、配信元のAP通信は、数週間後の遺体埋葬の写真だったとして65年ぶりに写真説明を訂正した。 写真は米軍が日軍から押収し、45年に「『バターン死の行進』で同僚の捕虜に運ばれる死傷者」との写真説明で配信された。歴史的な1枚として繰り返し使用されてきたが、ニューメキシコ州に住む生存者の元米兵が昨年8月、地元紙に掲載された写真を見て間違いを指摘。AP通信が国立公文書館の資料などと照合した結果、捕虜収容所で撮影された写真だとわかった。 AP通信は、写真説明を「『バターン死の行進』後に捕虜収容所で行われた埋葬の模様」と訂正した。通信社が、歴史的な写真について訂正を出すのは異例だ

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