茨城県那珂郡前渡村にて農業徳松の三男として生まれ[1]、水戸勤王の遺風を学んで成長した。 上京後は自動車の助手を経て岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に進学[2]。1929年(昭和4年)10月、同校業務課を卒業し、翌1930年(昭和5年)、東武東上線池袋駅に就職するつもりが、紅緑色盲のため鉄道業務に致命的であると判断されて就職できなかった[3][1]。失意の中、大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。 1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起きると、日本国民党(委員長・寺田稲次郎、書記次長・鈴木善一)がその抗議行動のために結成しようとした決死隊に参加。同郷で同じく井上の門下である小沼正、川崎長光、黒沢大二らとともに一心同体で行動しようと血盟しあう。日本国民党のほか、大川周明の行地社とも接触し、浅草本郷のタクシー助手をしながら決行の日を待つ。 血盟団事件時の写真 1