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人生に関するy-yoshihideのブックマーク (159)

  • 鬱病に悩み、自殺を考えている君へ。マット・フラクションからメッセージ | テレトラン2

    マーベルのホークアイやオリジナルシリーズのセックス・クリミナルズが人気の売れっ子ライター、マット・フラクション先生。彼はコンベンションのパネルやインタビューで、病やアルコール依存症との闘病について常にオープンに語っています。10月の始め、自殺を考えているというファンからフラクション先生のサイトに質問が寄せられ、先生は次のように答えていました。和訳を続きに。 Q: こんな質問をしてごめんなさい。でも病と自殺について真面目な質問があります。(自殺が) 最適な選択肢である可能性はありませんか。ただ純粋に疲れきり、これ以上 (人生を) 続けたくない人も居るのではないでしょうか。この世に美しく、素晴らしいものがあることは知っています。楽しみにするべきことや、痛みも笑いもあるでしょう。でも、もし興味を持てないとしたら? A: そうだね・・・まず言いたいのは、専門家の助けを求めるんだ。僕は自分の体験

  • 第20回 息をしちゃいけない!

  • 第19回 学校でいじめられる

  • 第18回  68年後の私の小学校

  • 第17回 父の色紙を受けとる

  • 女子高校生の中尾ミエ: 極東ブログ

    cakesに五木寛之の『風に吹かれて』(参照)の書評(参照・後編)を書いたとき、同書とのその複数の版や、関連書籍を読み返しつつ、ここが核心という部分に絞ったのだが、そのために同書のもつ、あの時代を描いた豊潤さの部分は捨象してしまった。その一つが、女子高校生の中尾ミエと、それを見つめる30歳ほどの五木寛之の視線だった。 話は、同書の「光ったスカートの娘」に含まれている。五木寛之がまだ作家として登場する前のこと、早稲田大学を除籍され(後、中退に変わる)、そのまま社会に出て、新しいメディアの世界でCMソングを書いたり、ショービズに関わったりしていたころのことだ。同エッセイには「三十四歳の今日まで、様々な人間を見てきた」とも書かれているように、このエッセイ執筆時は、34歳だった。 エッセイは、彼が初めて作詞者としてその名前を記したCMソングの思い出である。当時、彼はまだ五木姓ではなかったが。 製品

  • [書籍]本を書きました。『考える生き方』(finalvent著): 極東ブログ

    冗談みたいなんですが、ええと、を書きました。『考える生き方』(参照)。アマゾンを見ると、明後日、2月21日に発売となっています。 自分のところには数日前に見が来て、「ああ、になったんだ」と感慨深かったのだけど、いま発売日を確認したら、もう明後日なんだと驚いた次第です。 内容は、あれです、ネットで嫌われる「自分語り」というやつです。 なので、ネットでするのもなにかなとにした……というほどではないのですが、いろいろ考えたのですが、ネットで書くより、で書いたほうが読んでもらえるような気がしたというのはあります。 有料プラットフォームcakesで書いている「新しい古典を読む」の書評を続けていても思ったのだけど、cakesもネットではあるけど、有料なので読みたいという人が読むことになります。すると、読む人の数は減ってしまうし、簡単な一言コメントみたいなものも少なくなりますが、その分、深く読

  • 【人生相談 あすへのヒント】妻と妻の女友達がレズビアンだった(60代男性)+(1/3ページ) - MSN産経ニュース

    相談】 結婚して35年になります。とは寝室を別にし、10年ほど前から性生活がほとんどありません。そのが、5年ほど前から女友達を家に泊めるようになりました。最初は何とも思っていなかったのですが、あるとき、とその女友達が性行為をしているのを偶然、見てしまったのです。 いわゆるレズビアンです。驚き、ショックを受けました。3人の子供たちはみんな独立し、知られることは今のところありませんが、私は定年退職者で家にいます。外で2人が性行為をするならまだ許せるのですが、家では勘弁です。しかも、この頃は相手も開き直り、昼間から家にいる始末です。 は家事をしっかりこなし、私に対する態度も変わりません。2人は私が事実を知っていることを知りません。2人に話した方がいいのか…。どうしたらいいでしょうか?(福島県 60代男性)

  • みそ文 問うてそして笑い合う

    薬学部の学生だった大学一年生のときに私は寮で暮らしていた。大学に付属する女子専用の学生寮で、部屋の作りは四人部屋。勉強机がよっつと、二段ベッドがふたつ、つまり寝台がよっつと、衣類用の開き戸と引き出しセットになったクローゼットがよっつ。私は二人部屋利用だったから、勉強机をふたつとクローゼットをふたつとベッドを上下二段使う。ルームメイトも同じように反対側の壁に面した勉強机をふたつとクローゼットをふたつとベッドを二段使う。 彼女と同室になったのは秋の学園祭のあとからだ。彼女の同室だった人と私と同室だった人が同時に退寮して一人暮らしを始めたため彼女と私は寮の部屋を一人で使う状態となった。いくら退寮者が多くて部屋がたくさん空いていても、二人部屋利用である限り一人部屋利用はできない。そもそも一人部屋利用という設定がない。 彼女は定期的に福岡のおかあさんに宛ててハガキを書く。福岡のおかあさまからもちょく

  • 女学校の想い出: 気がつけば82歳

    女学校に入学して小学校との違いは富裕層の子どもが多いことだった。 我が家は平均的な中流家庭だったけど公立の小学校では収入的に恵まれない家庭の子どもも多かったがそんなことは関係なく皆が仲良しだった。 女学生になった時に母が珍しく 「お金持ちの子が多いけれど気にすること無いからね」 と言ったので、そういうことを考えたことも無かった私は却って少し心配になった。 でも入学してみればそんなことは杞憂だった。 普通の女の子の集まりですぐに仲良くなり自然に気の合う同士の友達のグループも出来た。 親の職業など聞く機会も無くて後に大人になってから知ったくらいだ。 あの頃電話は余り普及していなかったがクラスの電話連絡網を作った時に電話の無い家は2〜3人だけで我が家もそのなかに入っていた。 父は病院から呼び出されるのが厭だからと言っていたが言い訳だったと思う。 夏めいてくると冷蔵庫に入れる氷を配達してもらう。 

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2012/04/26
    「少なくとも妙な偏見を持たずにどんな環境でも喜びや哀しみ、悩みが有ることを肌で知った」
  • 女学生だったころ: 気がつけば82歳

    女学校に入学して小学校とは全然違うのに戸惑った。 公私立の女学校が沢山有ったなかで受験したのは少人数の私立の女学校だった。 私が希望したのではないが姉が通った学校で両親も当然といった感じで、合格通知が届いても家族はだれも感激してくれなかったな。 兄が志望校に合格したときとはえらい違いだ。 末っ子の女の子はそういうものらしい。 女学校は木造2階建てで小学校の立派な校舎とは大違いだったが母の話では校長先生が女子にコンクリート建築は冷えて良くないと寄付を受け付けなかったそうだ。 女学生になると雰囲気が全然違う。 ともかくお行儀が良い。 はしたない言葉は使わない。 騒がない。 命令されることが少なく自主を重んじてくれてたと思うが他校のことは良く知らないし個人で感じたことも違うかも知れない。 女子の進学の少ない時代だったから受験に煩わされること無く先生方はご自分の理想で教育して下さった。 国語の先生

  • 雨音はショパンの調べと小林麻美: 極東ブログ

    先日のイースターのことだった。この季節になるといつもユーミンの「ベルベットイースター」を思い出す。荒井由実としてのファーストアルバム「ひこうき雲」(参照)に収録されている。村上春樹がたぶん三鷹で暮らしていた1973年のこと。ユーミンは1954年生まれだから、19歳。14歳でミュージシャンしていたが、まだティーンエージャーで、呉服屋さんの娘らしく多摩美で日画を学ぶ学生だった。コント55号の二郎さんが彼女のぞっこんのファンだったのも思い出す。NHKラジオで、サンディーアイと同じ時間帯だったと思うけど、ディスクジョッキーもしていた。 「ベルベットイースター」だが、なんでベルベット(ビロード)なのか今もってわからない。欧米人にそういう感覚はないと思う。歌詞中「天使が降りてきそうな空」というのも欧米的な感覚なのかよくわからない。たぶん、この天使は「ナイトミュージアム2」(参照)とかに出てくるああい

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2012/04/12
    一言も言及されないGazeboの哀しさ!
  • 今年の3月11日に思ったこと: 極東ブログ

    昨日は東日大震災から1年という日だった。振り返って自分はどう思うのかというと、これがまったくわからない。亡くなったかたへ黙祷などもしない。黙祷というのがどういう意味があるのかもよくわからない。なにかの集会で黙祷しましょうと言われたら、特に否定もしないし、ほかの人がするようなしぐさをする。心は空っぽのまま。そういうことは他にもある。日の丸が飾ってあっても君が代が流れていても、さほど関心を引かない。そうする人がいても、あるいは反発する人がいても、まあ、いいんじゃいのくらい。 自分の心が幼いからだと思うのだが、震災については、まずもって恐怖の映像が心を去らない。風化もしない。メディアを通して見ているのに、自分の最期となる瞬間が訪れてきたようにリアルに想像してしまう。 NHKニュースの報道だったが、自動車に閉じ込められて洪水に流されていく人がいた。あれ、あの人、このまま死んじゃうんじゃないのか、

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  • 長くファンを続けるならば、時には最低につまらないモノを観るのも悪くはない - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

    今日は、以前から思っていたことを"独り言"としてアレやコレやと! 漫画、アニメ、ゲーム音楽映画、プロレス…自分の好きなモノに対して、不意に冷めてしまった瞬間、ファンであることを辞めようかと迷った瞬間。 そんな時に、どうするか? というお話です。 ■私が、プロレス"ファン"を辞めようと思った瞬間私は、プロレスが好きです! もう、大好きです!! 専門の週刊誌を毎週欠かさず読み、真夜中に放送される試合の中継も欠かさずチェックし、スポーツ新聞やインターネットの速報で試合結果とリング上でのストーリー展開を追い、そして、会場に試合を観に行く…という生活を、かれこれ15年以上続けています。 もう、心の底からプロレスが大好きなので、この熱は今までただの一度も冷めたことはありません! …と言いたいところですが、そんな自分でも"プロレス"というジャンルに対して、それまで抱いていた熱意と興味が急激に冷め、フ

    長くファンを続けるならば、時には最低につまらないモノを観るのも悪くはない - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス
    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/10/18
    アメコミにも言えること。
  • 私の異常なお見合い・覇王伝 または私は如何にして独身の自由をかなぐり捨て結婚を決意するにいたったか - Everything You’ve Ever Dreamed

    突然だが結婚することにした。来月から彼女と暮らす。籍を入れるのは来月上旬の予定。身内で不幸が続いているので、当面、式やパーティーはやらず、来年あたり、不幸のホップステップジャンプが無事着地して落ち着いたら、ささやかなパーティーをやろうと彼女とは相談している。プロポーズの言葉は二人だけの秘密。当事者以外が聞いても面白いとは思えないし。「結婚するかい?」「ハイ、キミとなら」。ね?面白くない。面白くないと言われればそれはそれで腹が立つが。 いままで彼女との結婚を考えなかったかといえばウソだ。僕は、語感からすると矛盾しているようなことを述べているように聞こえるかもしれませんが、筋金入りのインポテンツ。そんな病気を抱えたまま、嫁をもらうわけにはいかない。もし彼女に触れたとき、反応しなかったら彼女が可哀想だろう?。だから僕が病気に打ち勝ったとき、それがいつになるかわからないけれど、そのとき彼女がまだ僕

    私の異常なお見合い・覇王伝 または私は如何にして独身の自由をかなぐり捨て結婚を決意するにいたったか - Everything You’ve Ever Dreamed
    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/07/22
    おやおやおや…
  • みそ文 慎重に自由奔放に

    「すこやか堂」で勤務していたとき。夕方五時が過ぎる頃だったか六時が近い頃だったか、同僚がお客様として来店する。この同僚は、朝から午後二時までの勤務契約だから、その勤務終了後の買い物時間を含めても、午後二時半か三時前にはいなくなる。夕方遅い時間帯に彼女とお店で会うのは、なんだか新鮮な感覚。 同僚の話によれば、彼女の子どもである小学生の女の子二人のうち、下の子はこの春一年生になったばかりなのだけど、その下の子が、下校途中に転倒して怪我をして帰ってきたという。 おねえちゃんと二人で歩いていて、横断歩道の真ん中で妹のほうがつまづいてこける。そして号泣。おねえちゃんは思いがけない出来事にびっくりして泣きそうになるけれど、ここで自分が泣き出したら妹はもっと不安になって泣くだろう、と判断して、とにかく歩行者信号が緑のうちに歩道へと妹を立ち上がらせてひっぱる。 大号泣する妹に「おうちに帰っておかあさんにみ

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/06/16
    こういう姉妹の差ってどこから生まれてくるんだろう。
  • みそ文 先の見えない安心

    十代の後半や二十代前半のあの頃、体も心も若くて、ぴちぴち、というよりは、何かをもてあますほどに、たぶん、体も頭も、すべてが、むちむち、としていて、そのもてあます何かを、消費して吐き出すかのように、ああ、そうだ、小さな子どもが意味もなく、走り回ってひたすらにエネルギー放出するみたいに、あの頃の私達は、しょっちゅうどこかに集まっては、夜遅くまで、べたり飲んだり、喋ったり笑ったり、何かで落ち込んでみたり、びーびーと泣いてみたり、誰かの誕生日が近いといっては、手料理を持ち寄って、誕生日パーティーを行い、誰かの誕生日だといっては、また料理を持ち寄って、再びお祝いパーティーを開き、何もなければ、ただそれぞれが住む部屋に互いに遊びに訪れて、べて飲んで、喋って笑って、そして眠くなったなら、昏々と眠リ続けて、英気を養い、目を覚まし、またべて飲んで、喋って笑う。 あの頃の私達は、あの頃の出来事とそれに伴

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/06/15
    若いという事。「きっとあの頃の私達は、「先(未来)が見えない」からこそ、いつも心底安心して、あんなふうに、泣いたり笑ったりすることができたのだ」
  • みそ文 あの夏、ハムのサラダを

    あの夏、キッチンでわたしたち三人が並んで作業しているのを見て、一号ちゃんが「わたしも料理できるんだけどなあ」「料理したいなあ」「エプロンも持っとるよ」と言って、丸亀友人に「ねえねえ、おかあさん、わたしも何か作りたい」と言う。一号ちゃんとしては、小学校入学前の男児ふたりの相手をするのにも少し飽きてきた頃だったのだろう。 丸亀友人が「うーん。一号にできることがあるかなあ」と言うから、わたしが「あ、じゃあ、わたしの代わりに、ハムのサラダ作ってくれるかな」と提案する。ハムのサラダは、丸亀友人が「冷蔵庫にいただきもののおいしいハムがあるやつで、ハムサラダも作りたいんだけど、わたしそこまで手がまわりそうにないけん、みそさんと芦屋友人にお願いしてもいいかな」と言っていたメニュー。 一号ちゃんはすごくはりきって、「わたし、それ作る。できる」と言って、自分のエプロンを引き出しから取り出して身につける。「では

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/06/15
    一人きりの食事は何か味気ないしねえ。「自分が作った料理を誰かとともに「おいしいね」と言い合いながら食べるのはうれしい。それは人類としての食事というものの醍醐味であると同時に自由のひとつでもあると思う」
  • みそ文 あの夏、宮崎の冷や汁

    あの夏の土曜日の夕ごはんは、いろいろとごちそうだったのだけれど、印象に残っているのは、宮崎出身の芦屋友人が作った「冷や汁」と、丸亀友人ちの一号ちゃんが作った「ハムのサラダ」。ハムのサラダは、一号ちゃんと芦屋友人とわたしの合作だけれども、一号ちゃんが「わたしが作ったハムのサラダ」とその後ずっと言っていたから、あれは一号ちゃんが作ったハムのサラダだと思う。 わたしは今でも夏になると「冷や汁風」をよく作る。しかし、わたしが作るものとは異なり、芦屋友人が作る冷や汁は、場宮崎仕込みならではのちゃんとした作り方だ。 わたしが最初に「冷や汁」なるものをべたのは、二十歳を過ぎて間もないころ、宮崎旅行に行ったとき。そのころ大学生だった丸亀友人とわたしは、大阪からブルートレインという寝台夜行列車に乗って、宮崎にたどり着いた。当時宮崎に帰省中の芦屋友人が宮崎駅に迎えにきてくれて、彼女の自宅に泊めてもらう。そ

    y-yoshihide
    y-yoshihide 2011/06/15
    「おいしくて、そして、にぎやかでたのしくて、だから、あの夏の冷や汁は、特別で格別な記憶」