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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • ドムドムバーガーを食らう!

    ドムドムバーガー誕生の背景時は高度経済成長時代真っ只中の昭和40年代の日。 日進出の機会を伺っていたマクドナルドは、ダイエーと組んで合弁会社を設立しようとしました。が、資比率のい違いからこの業務提携はおじゃんとなりました。 マクドナルドはのちに、日のファーストフードに将来性を見出した藤田田によって「日マクドナルド」が設立され展開していくのですが、ダイエーも独自のルートでハンバーガーショップを模索し始めました。こうして「日初のハンバーガーショップ」ドムドムは誕生しました。 あれ?日初のハンバーガー店はマクドじゃないのかって? 日マクドナルド第一号店は1971年(昭和46)ですが、ドムドムバーガー第一号店は1970年(昭和45)。実はマクドより一年早いのです。 昭和20年代からあったとされる佐世保バーガーは横においておいて、「日初のハンバーガーショップ」の栄冠は、今でもド

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    yaneshin 2021/02/18
  • キャラバシ園-ユートピアに終わったユートピア

    伽羅橋をつくった男、山川逸郎かれは江戸時代より高石近辺の庄屋を勤めていた山川家の御曹司で、明治時代に初代高石村長を務めたこともある山川和正(1834~1918)を父に持ち、若いころアメリカに留学していた経験もありました。当時としてはては非常なるインテリであり、大阪弁でいうガチの”ボンボン”でもありました。 逸郎は旧制堺中学1から関西学院へ、その後工業学校の機械科を卒業し、単身米国へと留学します。 そこで、当時の最新技術であった自動車に関心を示しました。工業科を卒業した人間にとって、自動車に興味が沸かないわけがない。 しかし、大正8年(1919)に帰国した逸郎は、何故か自動車ではなく住宅建築に走ることに。おそらく、逸郎が米国遊学で強い感銘を受けたのは、自動車以上に当時アメリカ各地に作られていた、広々とした敷地の新興住宅地であったのかもしれません。 かれが住宅経営に乗り出す地盤はありました。

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    yaneshin 2021/02/09
    本文とは関係ないですが、心斎橋の銀装へカステラをよく買いに行っているので、伽羅橋と銀装に関わりがあると知って少し驚きました。
  • たった数年間だけ存在!南海”本線”の高師浜駅【南海電鉄歴史紀行】

    南海電鉄線、羽衣駅から高師浜線という支線が南へと伸びています。全長約1.5km。乗ってもたったの5~6分。聞くところによると、日一短い支線だそうです。 今は2両編成ですが、私が幼いころは1両の電車がのんびりと往復しており、かわいい電車やなと幼心に思ったものです。 高師浜は、現在こそふつうの住宅が立ち並ぶ静かな土地ですが、そもそもは高級住宅街、つまり「ふつうじゃない」住宅のために大正時代に開発された土地でした。 土地会社は南海直営ではなく地元素封家たちが金を出し合って設立したデベロッパーなので、土地とお金出すから鉄道敷いて~とお願いしたのでしょう。 大正7年(1918)に羽衣~伽羅橋駅間が、翌年に高師浜まで路線が延び全線開通しています。 高師浜線の歴史はイコール高石の住宅開発の歴史、鉄道が敷かれているのは、何らかの理由があるのです。 今では信じられませんが、戦前の高師浜線は全列車難波から

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    yaneshin 2021/02/04
  • 浜寺俘虜収容所-日露戦争最大のロシア兵捕虜収容所

    世界の下馬評は1000人中999人がロシア勝利を信じて疑わなかったのですが、蓋を開けてみれば日の勝利。 死傷者数だけを見ると痛み分けに等しいですが、ロシアの南下を止め、南満洲からロシアの脅威を排除するという戦争目的は達成。その上に南樺太までいただいたので、日の勝利には間違いない。 戦争をすると、当然ながら捕虜が発生します。 捕虜は国内に移送され収容所に収容されたのですが、日露戦争におけるロシア兵の捕虜収容所は、愛媛県の松山や千葉県の習志野など全国29か所に点在していました。 特に松山は、 ・最初に作られた収容所 ・収容者が教育レベルの高い将校が中心で、文字で記録を残した(史料が多い) ・郷土史家や地元大学の熱心な研究 ・司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響 浜寺俘虜収容所ができるまで大阪には、天下茶屋に小規模の収容所が存在していました。 明治37年(1904)10月に陸軍予備病院天下茶屋分院

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    yaneshin 2021/01/29
  • 海道畑停留所-阪堺電車に残る廃駅

    海道畑駅 南海電鉄浜寺公園駅から徒歩約2分くらいの場所に、阪堺電気軌道の浜寺駅前停留場があります。阪堺電気軌道など正式名称で呼ぶ必要もなく、地元では「チンチン電車」で通用します。 浜寺の次の駅は船尾なのですが、その駅間距離が「チンチン電車」の割にはやけに長い…その間に駅でもあったのか!?と思える距離感ですが、事実その間にかつては「海道畑」という駅が存在していました。「かいどうばたけ」ではなく、「かいどうばた」と読んだそうです。 浜寺駅前を出発した電車は、南海線を跨ぐためにいったん高架となります。南海とのガードを上りきったかどうかという場所に、海道畑駅は存在していました。 海道畑駅の開業時期ははっきりしません。 南海や阪堺の資料をいくら見ても、どこにも書かれていません。ネットでは新阪堺線との連絡用に作られたという情報が流れています。その真偽は不明ながら、少なくてもわかることは… 昭和3年(

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    yaneshin 2021/01/26
  • 新阪堺線(大阪市電阪堺線)と幻の浜寺駅

    そこには、かつての繁栄ぶりを示す、もう一つ、いや二つの「駅」が存在していました。 地元からも忘れられ、見向きもされていない駅のお話を2回シリーズで。今回は、南海・阪堺ともう一つ、浜寺まで走っていた「もう一つの阪堺」の話を。 新阪堺現在の浜寺公園近辺を走っている鉄道は、南海電鉄と阪堺電気軌道の2のみです。が、昭和初期にはもう一走っていました。それが俗に「新阪堺」と呼ばれた鉄道です。 短命すぎて歴史のごみの山にうずもれていた感があるこの鉄道、正式名称は「阪堺電鉄」。しかし、現在残る「阪堺電気軌道」とは何の関係もありません。 この阪堺電鉄、路面電車という形態も「阪堺」という名称も、先輩格の「阪堺電気軌道」(当時は南海阪堺線)と非常に紛らわしいため、周囲は「新阪堺」と呼んでいました。 こういう経緯があってややこしいので、以下阪堺電鉄は「新阪堺」、阪堺電気軌道は「現阪堺」に統一します。 新阪堺は

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    yaneshin 2021/01/16
  • 半藤一利さん死去-歴史探偵を偲ぶ

    2021年(令和3)1月12日、半藤一利さんが亡くなりました。 (写真:時事通信より) 享年90歳、まだ若いのに…なんて言えない年齢であり、結果的には大往生ではありますが、惜しい人を亡くした感は強いです。ご冥福をお祈り致します。 半藤氏と言えば昭和史。私は司馬遼太郎の「私には昭和史は書けない。次の世代に託す」という言葉を胸に昭和史(特に戦前史)をライフワークにしていますが、特に先生というものを持たない独学の身である私にとって、半藤氏は師範のような感じの存在でした。なので、半藤氏の死は師匠を亡くしたに等しい。 歴史学者でも歴史家でもない「歴史探偵」という立場で、自由にかつ辛辣に、旧制中学生の悪ガキで止まったかのように、時には海軍の提督に向かい「あんたそれでも男か帝国軍人かっ!」と怒鳴ってまで昭和史に向き合った姿は、私にとって指針でもありました。歴史家として年取るならこういう感じが良いなと。

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    yaneshin 2021/01/13
  • 南海電鉄浜寺公園駅-幻の5番線【南海電鉄歴史紀行】

    南海線の浜寺公園駅は、大阪府堺市にある南海線の駅の一つです。 地元民にとっては「浜寺公園」と聞くと何かえも言われぬお上品な香りがし、お年寄りの世代には潮の香りすらただよってきそうな、少し特別感がある駅でもあります。 南北朝時代の後村上天皇の時代、現在の高石市にあった大雄寺というお寺がありました。かなり大きなお寺だったそうですが、吉野にあった日雄寺が「山の寺」と呼ばれたのに対し、大雄寺が「濱の寺」と呼ばれたことから、浜寺という名前が起こったと伝えられています。 浜寺の海岸は、古くから白砂青松の名勝の地として全国に知られ、夏目漱石も、明治42~45年の間だそうですが、ここを訪れ作品にも反映させています。 明治39年(1906)、大阪毎日新聞社がここを海水浴場として開発を始めました。遠浅の海岸は海水浴にはうってつけの環境で、夏の暑い時期になると、ここをめがけて関西中から人が訪れたリゾート地で

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    yaneshin 2020/12/31
    浜寺公園駅駅舎が辰野金吾氏の設計によるのは、日露戦争時に設けられた浜寺俘虜収容所も関係しているという記述をどこかの文献で読んだ記憶があるのですが。また、調べてみます。
  • 三津浜稲荷新地(愛媛県松山市)|遊郭・赤線跡をゆく|

    「坊っちゃん」の降り立った地-三津浜三津浜(みつはま)は、愛媛県松山市街の北西にある港町です。 古くから伊予水軍の拠地であり、江戸時代から明治後期にかけて全国から船が寄港し、ヒト・モノが行き交った四国の盛り場の一つでした。 その後は北部に建設された高浜港に「松山港」としての地位を譲りますが、現在でも漁港・近海旅客船の拠点、そして松山市内のベッドタウンとなっています。大阪に例えたら堺のようなところかなと。 かつての三津浜が隆盛ぶりを示す、間接的な証拠があります。 大正時代の「三津浜Walker」こと『みつが浜』(大正12年刊)に掲載された銀行の広告です。 銀行から融資してもらうためには担保が必要ですが、昔の担保は不動産だけではなく、米や海産物など現物も多々有りました。その現物を保管する倉庫、担保用の金庫が銀行は必要で、それだけ三津浜にヒト・モノが集まっていたということ。 これらの銀行も何度

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    yaneshin 2020/12/26
    先月、松山を旅行した際、呉に向かうために伊予鉄高浜線に乗りました。 途中で三津浜を散策してみるのも良かったかなと。
  • あなたは何問読めるかな!?大阪の難読地名

    という、いわゆる「難読地名」がいたるところに存在しています。 関西以外では、アイヌ語の当て字の北海道などはさておき、難読地名は例外的に存在するのみ、その都度覚えていけばいいと思います。が、大阪は読めないと日常生活に支障をきたすほどそこら中にあり、それこそ「掃いて捨てるほど」という言葉にふさわしい。 ところで、非関西人からのこんな質問をよく目にします。 答えは単純明快、そんなことはありません。 大阪人は自分の方言を大切にする分、相手の方言も尊重します。だから標準語でも九州弁でも全く問題ありません。むしろ各地の方言でしゃべった方が、こいつ地元を大切にしとると高評価。 経験上、関東(ガチの江戸っ子は除く)の 圧の方が絶対に強い。そしてうわべはそんなことありませんと装っているので、余計に質が悪い。 中途半端な大阪弁をしゃべってひんしゅくを買うより、そこら中にある難読地名の読み方を覚えることと、相手

    あなたは何問読めるかな!?大阪の難読地名
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    yaneshin 2020/12/24
    大阪在住歴50年近くですが、まだまだ読めない地名があるなと。
  • 大阪新世界のゲームセンター「ザリガニ」でレトロゲームな一時を!

    新世界にあるレトロなゲーセン通天閣とコテコテ臭に包まれたDEEPゾーン大阪新世界。大きなお友達たちの日常生活で失った童心を揺さぶるコテコテのレトロゲームセンターが、その一角に存在します。その名は… 「ザリガニ」 「ザリガニ」の場所は、地下鉄と阪堺線の恵美須町駅(恵美須町交差点)から通天閣へ続く道の、ちょうど中間に位置します。 恵美須町駅から、通天閣を目印にこの道をまっすぐ行くと、 この看板が目印! 向かって右側にこのような店が見えます。そこが「ザリガニ」。写真はビニールカーテンがあるので夏の写真です。 中には1980~90年代に一斉を風靡したゲームがビッシリ。1970~80年代前半生まれの方は、子供の頃に見たあのゲーム、このゲームにおおはしゃぎ。目から汗が止まらない懐メロならぬ懐ゲーの博物館です。 私の青春の約10ページがこの一角に沈殿している…初めてここを訪れた時、社会の荒波に呑まれ落と

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    yaneshin 2020/12/20
    レトロゲームのオンパレードですね。さすがは新世界。
  • かすが娯楽場ー大阪新世界のレトロなゲームセンター

    大阪は新世界には、レトロゲームに特化したレトロゲーセンがいくつか存在しています。次回紹介する(予告編です)ザリガニが知名度では一歩抜きん出ているようのですが、他にもブログのネタにすべきゲーセンがいくつか存在しています。 今日は、その一つを紹介します。 ゲームセンターかすが平日でも観光客の足が絶えないジャンジャン横丁の雑踏の中に、そのゲームセンターはあります。ただでさえ狭い上に人通りが激しいジャンジャン横丁、意識しないと見逃しそうなほど、そのゲーセンはさりげなくたたずんでいます。 「テレビゲーム かすが」…このネーミングだけでも、十分レトロです。そう言えば、ファミコンがテレビゲームの代名詞になる前の昔、テレビゲームって言ってたよなと。 ここは正式名称を「かすが娯楽場」と言うのですが、ググったらそう出て来る程度で、「ゲーセンのかすが」で十分通じるものと思われます。 中は昔ながらの、アラフォー~

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    yaneshin 2020/12/17
    私のようなおっさんは一日中入り浸れそうです。今はコロナ禍なのでそうは行かないでしょうが。
  • 丸山・加津良遊郭(京都府舞鶴市)|おいらんだ国酔夢譚|

    前回の龍宮遊郭編で、地元のおじいちゃんから、竜宮は”戦時中”に丸山地区に移ったという貴重な話を聞き、その足で丸山地区に向かうことになりました。 とは言うものの、丸山地区ってどこ?地元土地勘ゼロ。いきなり途方に暮れてしまいましたが、そこは21世紀が誇る文明の利器の出番です。 まずはナビで住所検索。ま・る・や・ま♪と検索・・・はい、一発で出てきました。よし、龍宮のおじいちゃんが言う地区と一致、間違いなし! 舞鶴の知られざる遊里、丸山遊郭丸山地区は、『遊郭をみる』にサクっと書かれています。 「1940年(昭和15年)、竜宮遊郭は基地の拡張により丸山への移転を命じられ、13軒が移転。 軍ご用達の遊郭には配給の特配があるというので、京都の祗園からも19軒が移転してきて、32軒からなる丸山新地ができた」 『遊郭をみる』戦後に龍宮から移った業者が龍宮に帰ってきたことは、前回の竜宮編で記した通りです。 が

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    yaneshin 2020/12/13
  • 竜宮遊郭(京都府舞鶴市)|おいらんだ国酔夢譚|

    海の天然の要港、そして軍港の町舞鶴。舞鶴市は「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」と3つの地域に分かれています。 西舞鶴が戦国時代から続く「旧市街」なのに対し、東舞鶴は明治時代になって海軍の鎮守府、つまり主要基地となってから発達しました。東舞鶴や中舞鶴地区には海軍の基地はもちろん、海軍関係の施設などが、建設開始から開港までの間に雨後のタケノコのように建設され、軍港として栄えることになります。 道は碁盤の目の如く整然と区切られ、道の名前には軍艦の名前が付けられていました。西舞鶴が良い意味で古い感じの町に対して、東舞鶴は垢ぬけてスッキリした街並みと感じる気がするのですが、それは町が生まれた変遷にもよるのでしょう。同じ舞鶴といっても由来は全く違うので、同じ「舞鶴」ながら全く別の町とも言えます。 今回は、東舞鶴にあった【海軍御用達】の遊郭のお話。 竜宮遊郭の歴史東舞鶴にあった遊郭は竜(龍)宮遊郭と呼ば

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    yaneshin 2020/12/12
  • 京都府舞鶴市-舞鶴朝代遊郭|遊郭・赤線跡をゆく|

    京都府舞鶴市は、市内に入ると潮の香りがする日海沿いの港町。この町は、何面もの顔を持つ多面体な街でもあります。 舞鶴は大きくわけて「西舞鶴」「東舞鶴」「中舞鶴」に分かれていますが、いちばん有名な面は、明治時代から続く「軍港」という側面。舞鶴は海軍の街であります。「舞鶴」って聞いてこれを思い浮かべる人が多いと思います。 ここは海軍が目をつけて軍港として整備し、明治20(1887)年から14年かけ、明治34(1901)年に舞鶴鎮守府という海軍の一大拠地が出来あがります。 「鎮守府」とは今や日常会話では使うことのない半死語ですが(艦これがなければ当に死んでたでしょう)、簡単に説明すると海軍の拠地のこと。軍艦や海軍の軍人は必ずどこかの鎮守府に属していました。 もう一つは、戦国時代から続く城下町という側面。 歌人武将として有名な細川藤孝(幽斎)が織田信長から領地をもらい、城下町として整備してか

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    yaneshin 2020/12/09
  • 共楽園-帝塚山にあった幻の遊園地

    帝塚山帝塚山。この地名に上品さを感じる人も多いと思います。 「帝」という文字がついているだけで、えもいわれぬ高級な気品が字から醸し出される、大阪市南部の住吉区にある高級住宅街は、近代に入り現在の阪堺上町線が開通したことによって交通アクセスの利便さから、ここに住宅街を作ろうというプロジェクトが始まりです。 当時、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれ工業化が進んでいましたが、工場から出る煙害に悩まされ、富裕層は新しい住の環境を求め郊外へと居を移していきました。 その受け皿の一つとして開発されたのがこの帝塚山。大正2年(1913)から船場の商人向けに住宅開発が開始され、その後彼らの要望で子女が通う学校(帝塚山学院)や、当時としては女子大のコンセプトで設立された府立女子専門学校1や旧制中学2も帝塚山に作られ、文教地区としての顔もありました。 コンビニがない、いや反対運動が起こって作れないほどの高

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    yaneshin 2020/12/05
    共楽園という名前からあの渡辺淳一氏の小説「失楽園」と読み間違えそうになりました。
  • 阪神飛行学校と盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)

    「阪神飛行学校」をめぐって前回は大阪の大和川河口、現在の南港口周辺に「第ゼロ代大阪空港」を作るはずだった話でした。 「戦前、南港に空港を作る予定だったらしい」 この話は地元に伝わる伝説として小耳程度にはさんでいたものの、おばちゃんのゴシップだろうと気にしていませんでした。 これが事実とわかり早速調べ上げたのですが、資料を追っていくいくうちに「阪神飛行学校」という謎のワードに引っかかりました。 きっかけは、前回紹介した当時の新聞記事から。 この中に、 大正村(阪神飛行学校)も候補、それも将来の拡張も可能な有望株として名前が挙がっています。「阪神」と名がつくので、西宮くらいかなと勝手に推定してググってみると、これがなんと、意外な場所と名称が出てくることに。 「阪神飛行学校」とググってみると、セスナ機の拠点である八尾空港(大阪府八尾市)に当たります。 ああそうですかと八尾空港のWikipedi

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    yaneshin 2020/12/05
  • 大和川飛行場-大阪南港、幻の空港計画

    先日の大浜水上飛行場の記事のとおり、大阪初の空港は堺の大浜でしたが、所詮は水上飛行場、キャパシティ的には大したものではなく、将来性も低い。 当然、もっと格的な「空港」をつくろうという話になるのは当然の流れ。そんな流れの中で作られたのが木津川飛行場でした。 木津川飛行場は、 日の航空事業が急速に発展していくさなかの昭和4年(1929)に運用が開始されました。 (昭和11年発行『大阪觀光地圖』) 場所は現在の住之江区の木津川の河口付近、新木津川大橋の西側に作られました。 ここから東京や四国・九州など国内線の飛行機が飛んでいたことは、工場ばかりの現在の光景からは想像できません。というか、飛行場があった時から工場だらけじゃないかと。 大浜飛行場は滑走路のない水上飛行場でしたが、滑走路を備えた木津川空港は「初代大阪空港」として、絶頂期の昭和13年には年間離発着回数約8800回、旅客数約10000

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    yaneshin 2020/12/04
  • 日本航空輸送の魁!日本航空輸送研究所と大浜水上飛行場

    堺という町大阪市の南にある堺市は、最近仁徳天皇陵が世界遺産に指定され盛り上がったことでもわかるように、その歴史は古墳時代にまでさかのぼる交通の要衝でした。 そんな堺が大発展したのは室町時代から。商業を中心とした自治都市として栄え、キリスト教宣教師に「東洋のベニス」と言わしめました 堺は周囲は堀によって囲まれていました。 今のGoogle mapでも、堀の跡をかなりくっきり確認できます。私が小学生の頃は、これはそのまま戦国時代のものだと習いましたが、現在は江戸時代のものだと確定しています。信長が暴れていた頃の堺は、発掘調査によると一回り小さかったようです。 堺出身の私は、大阪市内(方面)へ行く時は常に「大阪に行ってくる」と言っていました。梅田へ行こうが天王寺へ行こうが、USJへ行こうが海遊館へ行こうが、全部「大阪」。幼いころから言っている習慣です。親も、 「大阪のどこやねん!」 と突っ込むこ

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    yaneshin 2020/12/04
  • 仙崎遊郭(山口県長門市)|おいらんだ国酔夢譚|

    注意記事は2011年執筆の前ブログ記事を土台に、内容をリライトしたものです。 情報は更新していますが、古い場合があるのでご了承ください。 萩の町を離れ、日海の荒波をバックにししながら西へ西へと進路を向けました。 そして次にやってきたは仙崎。 仙崎は長門市の一部ですが、昔は仙崎町という独立した町でした。萩からは、地図で見るとけっこうな距離にありそうですが、車だと所要1時間ほど。地図で見ると遠そうですが、実際に行ってみると意外に近い。日はやっぱし狭かった!? 仙崎は、地図を見てもわかるように、日海側にある港町で江戸時代は捕鯨の基地としても栄えました。 捕鯨基地というと和歌山県の太地町が世界レベルで有名ですが、仙崎は日海側の太地町といったところでしょうか。 同じ哺乳類だからか、捕らえた鯨には人間と同じような法名をつけて供養されているそうで、その過去帳も残されているのだとか。 また、捕ま

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    yaneshin 2020/12/04