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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • 日本軍=坊主頭!?

    「日軍=丸坊主」というイメージ30年近くも前のこと、私が高校に合格し、さて入学式と校門をくぐった時、そこには少し異様に思えた光景がありました。全員ではないものの、男子のだいたい半分からそれ以上が坊主頭だったのです。今まで見たこともない光景でした。 中には丸刈りな男子もいたのですが、私の中学時代、つまり一般中学生の常識の範疇では「丸刈り・坊主頭=野球部」。特に野球部が強いというわけでもない、ごく普通の公立高校でしたが、こんなに野球部入部希望の男子がいるのかと。 しかし、その認識は大きく間違っていました。 高校は良くも悪くも地元のローカル学校だったのですが、入学する生徒も地元の中学出身が大多数。その大多数の中学が、実は校則で丸坊主だったのです。 私の中学はそうではなかったのですが、その後、友達に中学の卒業アルバムを見せてもらったところ、揃いに揃って男子は全員丸坊主。 今の中高生には考えられな

    yaneshin
    yaneshin 2020/08/09
    陸軍中野学校の学生も長髪が奨励されていたようですね。スパイ養成学校だから当然かもしれませんが。
  • 日本人が知らない、世界の仲が悪い国々

    「みんな仲良くしようね」 「お隣さんに迷惑をかけない」 これは「常識」です。が、それは「日だけの常識」であって、海外では通用しません。いや、理想論としては通用します。しかしあくまで理想論。 海外の常識は、 です。 少なくても、友達100人できるかな〜的な理想論及仲良論は通用しません。 例外でお隣なのに仲が良い例外的な国・地域は、北欧諸国とイスラム共同体。しかし、後者はカタールと周辺諸国の国交断絶や、スンニー派の国々とシーア派のイランなどの対立もあるので、もはやコーランの中だけのユートピア(ムスリムがそう思ってるだけ)になってしまいました。 もう一つの例外が、日台湾台湾は果たして国なのかという国際法の超上級編の論議はさておき、日台関係は現在、過去最高なほど関係が良くなっています。人間関係で言えばラブラブのカップル状態、勝手に自分の彼女だと思っている中国が、悪質ストーカー化し仲を裂こ

    yaneshin
    yaneshin 2020/08/01
    非常に楽しく(?)読ませてもらいました。トルコとギリシアはオスマン帝国までの因縁もありますが、20世紀初頭の希土戦争でギリシア軍が相当えげつないことをしたのが決定的でしたね。
  • 今は亡き貝塚の『深川』で料亭の味を堪能する|遊郭・赤線跡をゆく番外編|

    その貝塚の遊里跡のメインストリートの真ん中にそびえる、一軒の料亭がありました。 その名は「深川」。 敷地的にはかなり大きく、赤い外壁がいかにも「それっぽい」ムードを醸し出していますが、建てられたのは戦後であることは確定です。なぜなら「深川」がある界隈は昭和20年7月、B29がピンポイントで落とした焼夷弾が遊郭を直撃し、焼けてしまったから。詳しくは上のリンクを参照下さい。 実はこの「深川」、数年前に閉店してしまい、現在はその門を固く閉ざしております。 しまった!ここで一度でもいいからべて中を見ておけばよかった! …ところが、実は一度行ったのです(笑 2009年になりますが、ここ「深川」を訪問し前々ブログでアップしていました。が、閉店したからといってそのまま無にするのももったいない。考えた結果、文章を変えつつ全体の雰囲気は変えずこちらに移転してみました。 なお、いかんせん11年前に書いたブロ

    yaneshin
    yaneshin 2020/07/30
    ザ・料亭で雰囲気も良い感じだったんですね。 閉店前に一度は行きたかったです。
  • 阪和電鉄の迷列車-直急【阪和線歴史紀行】

    の鉄道は、海外に比べてかなりバラエティがあり、海外のコアなファンも予想以上にいます。 海外では「鉄道マニア」でひとくくりに出来るものが、日の社会学者が鉄道マニアをマジメに分類したら30種類以上に分かれてしまったことからも、日の鉄道文化の裾野の広さを物語っています。 中でも、列車種別の多さは我々も困惑するほどの多さ。海外は基、シンプルに「特急」「急行(あるいは快速)」「各駅」という風なのですが、日はそこに「区間急行」「快速急行」「快速特急」など多種多様。いちおう”Semi Exp”(準急)など英語表記がついていますが、”Rapid Exp”(快速急行)なんてこれ、

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    yaneshin 2020/07/25
  • 立石の赤線(特飲街)(東京都葛飾区)|おいらんだ国酔夢譚|

    戦後の混乱がやっと落ち着きつつあった昭和20年後半、東京には15~6ヶ所の赤線が存在していたといいます。青線や街娼のたまり場などを入れると「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたように、掃いて捨てるほど存在していたのでしょう。 今日の赤線は、そんな東京の赤線の一つ、東京都の葛飾区、立石の紹介を。 立石にあった赤線地帯私の事前調査と実地調査によると、立石の旧赤線のはだいたいこの区域です。 立石駅の北口の北部、商店街の道筋にある「立石駅前交番」の裏近辺が赤線地域と昔の資料にありますが、『全国女性街ガイド』は立石をこう表現しています。 「あそこは公衆便所だよ」 と痛撃する男がいるかと思えば、 「俺、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ…てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。けっ、たまらねえや」 という男もいる。早

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    yaneshin 2020/07/20
  • 戦前にあった100均ショップ-『均一店』

    100円均一ショップ(以下100均)は、現代ではすっかり我々の生活に密着しています。100均なしの生活は、もはや考えられないでしょう。 最初は安かろう悪かろうだったものが次第に質も良くなり、100均の王者ダイソーは、DAISOとして海外でも名を知られブランド化しています。 現在の100均が世に現れたのは、1980年代のこと。当時は鳴かず飛ばずだったそうですが、1990年代からの不況と共にその勢力を伸ばしていきました。 かのダイソーが店舗をオープンしたのは1991年のこと。創業者の矢野博丈が「安かろう悪かろう」の代名詞だった100均商品の質に目をつけ、質を上げることによりユーザーの信頼を得て、数ある100均勢力の頂点に上り詰めました。 ところで、品揃えの豊富さ、チェーン店展開、そして値段の均一を武器にして全国を制覇しようとした「元祖100均」が、戦前に存在したことはご存知でしょうか。 それも

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    yaneshin 2020/07/18
    デイリーカナートがあの髙島屋と関係があったとは知らなかったです。丸髙ストアは子供の頃に見かけた記憶がありますね。確かに髙島屋と同じマークでした。
  • 映画『太陽の墓場』の舞台を歩く-鉄道編

    『太陽の墓場』と 南海電車愚連隊を抜けたいと悩む武(佐々木功)を花子(炎加世子)が見つけ、うちがボスの信(津川雅彦)に話つけたるわと、彼と道端で交渉しているシーンです。 信の後ろにコンクリートの壁があります。これは南海電鉄の高架線で、『太陽の墓場』は現在の新今宮駅周辺を含めた釜ヶ崎が舞台、南海電鉄とは太い縁があります。 アングルを変えると、電車が走っています。さて、南海電車のどの車両なのか。 次のシーンを見てみましょう。 これで形式を答えよ、となると鉄道イントロクイズになるのですが、他サイトの情報も加味すると、 高野線用の「ズームカー」(21000系)か、 線で使われていた旧1000系(11001系)のどちらかになります。こちらは形式がややこしいため、「11001系」に統一します。 え?この二つ、何が違うの?全く同じやんか! 鉄道マニアでも何でもない人、いや、鉄道マニアでも車両に詳しくな

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    yaneshin 2020/07/16
    新今宮駅が無い頃の写真は非常に珍しいですね。
  • 映画『太陽の墓場』の舞台を歩く

    釜ヶ崎…事情を知らない人は、名前を聞いただけで恐れおののく(?)、あのあいりん地区です。 よそ者が入れば身ぐるみ剥がされ、女はシャブ漬けにされて東南アジアに売り飛ばされると恐れられた地域の特質か、現在でも言われたい放題言われています。 その昔は、確かに生半可に近寄れるものではない魔気を発していましたが、今はかなり毒気を抜かれた街になりました。たとえるなら、去勢された猛獣か。 ただし、好奇心だけで人にカメラを向けるのはやめておいた方がいい。 しかしながら、ここはブログネタとしてはうってつけの地域。表層を抜けて深く掘っていくと面白いものが見つかるのではないか。いや、必ず見つかるに違いない。 虎穴に入らずんば虎子を得ず。敢えて「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所に泊まり、同じ目線で釜ヶ崎を見てみようと。最近は、敢えて「釜」のドヤに泊まるのがマイブームになっています。お金がないわけじゃありません。 今回は

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    yaneshin 2020/07/14
  • 【後編】大阪市西成区-飛田新地|遊郭・赤線跡をゆく|

    飛田新地の戦後史幸い、空襲の被害をあまり受けなかった飛田新地は、戦争中を通して営業を続けていました。 松島遊郭の「公式歴史書」である『松島新地誌』にも、飛田のことが少し書かれています。空襲で綺麗さっぱり更地化された松島新地は、戦後になっても営業許可はおろか次の営業地も決まらないような宙ぶらりん状態。土地詐欺に遭ったり、やっと営業再開と思ったら今度は警察とGHQの一斉ガサ入れ。 涼しい顔して営業している飛田を、 と半分愚痴のような回想があります。 しかし、松島→飛田に移った業者を仲介にして飛田が資金援助して何とか再開できたこともあり、『松島新地誌』には「この恩忘れるべからず」とも書いています。 戦後は場所も移り規模も縮小した松島新地に対して、飛田はほぼそのまま残ったこともあり、「大阪でいちばん新しい」ニューフェイス遊郭がついに「大阪一」、いやもしかして「日一」の座に就いた瞬間でもありました

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    yaneshin 2020/07/11
  • 飛田新地(大阪市西成区)|おいらんだ国酔夢譚|

    大阪市西成区、ここに「現代の遊里」があります。 その名は飛田新地。 夜の飛田新地。 蛍のように光るネオンに、男が一人、また一人と「楽園」の光の中に吸い寄せられていきます。そんな光景が、新地の開業以来100年余、今日も続いています。 その名前は全国区となった飛田ですが、その通史となると、体系的にまとめられた書物がないせいか、ほとんど知られていないのが現実。飛田の1世紀にわたる歴史を知った時、ここは風俗街ではなくなります。 飛田新地-その歴史と設立の経緯飛田遊郭は、大正7年(1918)の12月に開業しました。歴史だけでも1世紀なのですが、開業当時は大阪の数ある遊郭の中では新参者遊里でした。江戸時代初期からの歴史がある新町や堀江、明治初期に出来た松島と比べると、飛田なんぞ若造どころか青二才遊郭というわけです。 今の南海なんば駅のすぐ北側に、かつて「難波新地」という色街がありました。これが飛田新地

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    yaneshin 2020/07/07
  • 大阪港「ハハハ(ハaハaハa)」と天満屋ビル-近代建築の中で美味しいランチと軽食を!

    私のライフワークの昭和史とグルメ。 一見、なんの接点もないような二つの言葉ですが、それが密接に絡み合う場所が各地に存在していたりします。 大阪の証券街、北浜にある「高麗橋野村ビル」というビルです。昭和2年(1927)に、今の野村證券などの前身である野村財閥が築いた貸ビルです。 大正後期から昭和初期の建築によくある曲線的な建築もさることながら、1階に注目。 そう、あのサンマルク(大阪北浜店)がテナントに入っています。ン百円のコーヒーを飲みながら昭和の名建築を満喫できる知的なデートスポットとして、世の昭和マニア百万人の注目を浴びています。 ところで、サンマルクのコーヒーって一杯なんぼでしたっけ?最近行ってないから忘れちゃったい。 もう一つがここ。 写真を見ただけで、タダモノではない威厳を醸し出す大正モダンの建築、「青山ビル」です。 1921年(大正10年)に建てられ、国の有形文化財にも指定され

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    yaneshin 2020/07/04
    「ハaハaハa」面白そうな店ですね。食べ歩きで検討してみます。
  • 滋賀県のココイチご当地カレーを食らう!

    みんなご存じ、ココイチことCoCo壱番屋。なぜかあの味がたまらずよく行っているのですが、外国人にも大人気です。先日も、某地在日米軍のコロナ外出自粛が明け、屈強な海兵隊員がいの一番に向かったのがココイチだったという、ジョークのような当の話がありました。 そんなココイチには、地域限定の「ご当地メニュー」があるのをご存じでしょうか。 たとえば、東京の「もんじゃカレー」、北海道の「函館いかカレー」(函館限定)、兵庫県の「タコの唐揚げカレー」(淡路島限定)など、ご当地素材を使った多種多様なカレーがあります。名古屋に至っては「台湾カレーきしめん」って何やねんそれ。 滋賀県にもご当地カレーが存在し、その数なんと5種類。といってもうち4種類は近江牛とその仲間たちなのですが、1種類だけ仲間はずれがあります。 (ココイチのHPより) 鹿肉のカレーとな! 実はこれ、過去に一度べたことがあります。鹿肉は以前某

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    yaneshin 2020/07/02
  • 港新地(大阪市港区)|おいらんだ国酔夢譚|

    大阪市内の遊里・遊郭と言われると、真っ先に連想するのが、現在でも「現役」の飛田や松島はもちろん、江戸時代からの超老舗、新町・堀江といったところでしょう。 ところが、売春が合法だった、それ以前に娯楽がそれほどなかった昔は今より数多くの遊里が存在していた歴史的事実があります。性欲のトイレという「穢れ」は真っ先に蓋をされ黒歴史化されることが多く、上に挙げた遊里のような超有名どころ以外は、資料もなかなかないのも実情。 今回の主役である港新地も、遊郭史を追っている人の間ですら存在が飛ばされている黒歴史的遊里の一つです。黒歴史化といっても、港新地が悪いことをしたわけでは全くありません。 港新地とは?その歴史をさぐる港新地は、現在の大阪市港区の夕凪(ゆうなぎ)地区にあった遊里でした。「市岡新地」「夕凪新地」という呼び名もあったそうです。 港新地は大阪港が貿易港として発展して人の出入りが多くなりましたが、

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    yaneshin 2020/07/01
  • 阪堺線宮ノ下駅(停留場)の怪-ある廃駅の謎を解く

    大阪の「西成」と聞くと、身体ごとひるんでしまう人が多いですが、西成といってもけっこう広い。非地元民が漠然とイメージする「西成」とは、いわゆる「あいりん地区」のことで、ほとんどの(?)西成は良い意味での下町です。他地域よりは多少濃いかもしれませんが、それは人の個性程度の違いです。 そんな静かな西成に、南海の岸里玉出という駅があります。元は「岸ノ里」「玉出」駅がヒュージョンして生まれた駅ですが、高野線の駅のガード下を「チンチン電車」こと阪堺線が走っていますが、それらが立体交差するあたりに、ホームらしき跡があります。 ググってみると、そこにはかつて「宮ノ下」という停留所があったとのことでした。 宮ノ下駅とその歴史宮ノ下電停(以下「駅」とします)は、現在の天神ノ森と東玉出駅の間にあった廃駅で、明治44年(1911)に開業しました。上記の戦前の地図でも、その存在が確認できます。 駅から少し視野を広げ

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    yaneshin 2020/06/26
  • 【後編】『火垂るの墓』を血も涙もなく時代考証してみる

    兄妹は死ななければならなかったのか?元海軍士官たちが怒った核心は、兄妹のみじめな境遇とその死に方でした。 海軍士官の子供が露頭に迷って餓死なんて、海軍の誇りにかけて絶対に有り得んと。 彼らにはちゃんと根拠があります。 兵学校の同期生を海軍では「クラス」と言います。そして、兵学校・機関学校・経理学校を同年に卒業した同期を「コレス」1と言います。 クラス同士は家族ごとの緊急連絡先などを海軍が管理しており、クラス同士の飲み会は「准公務」、つまり仕事と見なされたほど。 海軍は陸軍に比べて所帯が小さい分、クラス同士の横の団結の強さをモットーとしていました。それ故に、海軍はちょっと馴れ合い・身内庇いが強かったデメリットもあったことも事実です。 違う映画ですが、『男たちの大和』で主人公が、戦死した戦友の親元に報告に行くシーンがありました。 あれは善意やボランティアでやっているのではなく、戦友の死を看取っ

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    yaneshin 2020/06/23
  • 【前編】『火垂るの墓』を冷酷に時代考証してみる

    『火垂るの墓』の矛盾-清太と巡洋艦『摩耶』映画では、こんなシーンがあります。 清太「兄ちゃんな、節子の生まれる前、観艦式見たことあったんや」 節子「かんかんしき?」 清太「せや。お父ちゃん、巡洋艦『摩耶』に乗ってな。連合艦隊勢揃いやで」 ■観艦式(かんかんしき) 観艦式とは、軍事パレードのひとつで、軍艦を並べて壮行する式のことである。 ■『摩耶』(まや) 摩耶は、日海軍の重巡洋艦。高雄型の3番艦である。川崎造船所(現在の川崎重工業)神戸造船所にて起工。艦名は兵庫県神戸市の摩耶山にちなんで命名された。 レイテ沖海戦で米潜水艦の雷撃により沈没、戦艦武蔵に救助された乗組員が翌日の武蔵の沈没を体験したことで知られている。 考察しながら書くのが面倒くさいのでどちらもWikipediaより抜粋 その後、軍艦マーチをバックに敬礼をした兄妹の父が登場します。ちなみに、原作では「『摩耶』と父の姿を探したが

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    yaneshin 2020/06/22
  • 南海電鉄木津川駅-「都会の秘境駅」の知られざる歴史【南海電鉄歴史紀行】

    「都会のローカル線」南海汐見橋線令和2年6月1日時点での大阪市の人口は、推計で2,751,495人。首都圏には叶わないものの、それでもこれだけの人が一つの都市に固まって住んでいると思うと、少し不思議な感じがします。 そんな大阪市に「未開発」のような地があり、そこに秘境のような駅がある…。そんな話がまことしやかに伝えられています。 南海電鉄の路線図を見ると、岸里玉出駅から盲腸のような路線があることに気づきます。ここを「汐見橋線」と呼びます。 実はれっきとした南海高野線、よって正式名称は高野線のはずなのですが、すでにそんな呼び名で呼ばれなくなって久しく、現在は汐見橋と岸里玉出間を、2両編成の電車がのんびり往復するだけの、「都会の中のローカル線」と化しています。 その汐見橋線の駅の中の「木津川」という駅が、今回のお話の主役となります。 木津川駅-都会にある田舎!? 木津川駅は、岸里玉出駅から3駅

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    yaneshin 2020/06/19
  • 倉吉新地(鳥取県倉吉市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山陰の京都とも呼ばれる鳥取県の倉吉。昔の白蔵が残る町並みは山陽の「倉」こと倉敷に対し、山陰の「倉」と呼ばれているのだとか。 そんな古風な雰囲気を醸す倉吉に「変化」が訪れています。 アニメの聖地として町おこしをしようとしているそうで、倉吉駅の改札を出た途端になんだか萌え~な空気に。日最大級のフィギュアの博物館もオープンしたんだとか。嗚呼教えてくれ、どこへ行ってしまうんだ倉吉よ。 気を取り直して、今日のお題はそんな倉吉にあった「遊郭」の話です。 倉吉の「遊郭」 今回のお題は、鳥取と米子の間にある倉吉市。倉吉に遊郭があった…そのようなデータはどこにも存在はしません。いや、公式データにはなかったが故に、ほぼノーマークだったと表現した方が正解です。 倉吉市は江戸時代から栄えた商業都市で、その時の町並みが今でも残っています。文字通り「倉」の町で、瀬戸内側「倉敷」、日海側の「倉吉」とも言われているそ

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    yaneshin 2020/06/16
  • 戦前の大阪のチャイナタウン(中華街)【後編】ー川口華商の生きた跡を探訪する

    前回、戦前の川口(大阪市西区)に「中華街」があったことを記事にまとめました。 前編はその歴史の概要を書きましたが、今回はフィールドワークと実際に川口を歩いてみました。その繁栄は空襲で灰と化したと言われていますが、もしかして、カケラでも残っているかもしれない、そんなわずかな期待を込めて。 川口を歩く川口の中華街は、中央大通りより北のエリアです。 現在でも国道172号線が田地区を串刺しするように走っていますが、川口華商たちが行き交っていた時代も田のメインロードでした。 前回に出した、昭和14年(1939)の川口の風景です。 長いワンピース風の中国服を着た母子が道を渡ろうとし、大阪市電(路面電車)が道の真中を走っています。写真奥の左側にうっすら見える四角い大きな建物は、現在でも残る住友倉庫の上屋です。 住友倉庫はコンクリート製で味気なく、外見だけはレトロ建築愛好家の興味をそそるものではありま

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    yaneshin 2020/06/13
  • 戦前の大阪のチャイナタウン(中華街)-川口華商の興亡【前編】

    大阪中華学校大阪市浪速区大国町。ここにある学校があります。 中華学校です。 中華料理専門学校ではありません。在阪華僑のための学校です。 大阪中華学校…となると違和感があるかもしれません。しかし、大阪中華学校がある以上、一定の需要と歴史があるはず。 そんなことを考えながら周囲を散策してみたのですが、中華街のような雰囲気は微塵も感じません。 では、何故ここに…というかなぜ大阪中華学校が存在しているのか。 その歴史を掘ってみると、戦禍に消えたある地域の、忘却された歴史が浮かび上がります。 大阪にあったチャイナタウン大阪は、安政五年(1858)に締結された条約に基づき明治元年元旦(1868)より開港され、川口の地、現在の田1~2丁目に外国人居留地が建設されました。 が、川口はもともと海から離れ、川底も浅く大型船が入港できず貿易には非常に不便な地。明治10年(1877)には、ほとんどの西洋

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    yaneshin 2020/06/12