鳥取市の遊郭-その名は「衆楽園」鳥取という名前は、平安時代の文献にも名が出てくるほど古いのですが、現在の鳥取市の基礎が築かれたのは江戸時代のことになります。 元和3年(1617)、池田光政が因幡・伯耆32万石を与えられ、鳥取に根拠を置いたことがはじまりで、池田は数年の時間を費やし鳥取を城下町として整備し発展しました。その後、光政の遠縁の池田光仲が岡山藩から赴任、幕末まで続きました。現在でも市内には鳥取城が残っています。 鳥取にあった遊郭、「衆楽園」は、その池田氏と関係があります。 衆楽園とは、元はというと池田氏の庭園(下屋敷)でした。岡山には「後楽園」がありますが、衆楽園はその姉妹版といって良いでしょう。戦前の新聞記事(鳥取新報)にもそういうルーツがあると書かれています。 その下屋敷が、明治4年の廃藩と共に、士族の小倉直人という人物に払い下げられます1。小倉は米子城も買い取るのですが、それ