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ブックマーク / masao-hate.hatenablog.com (2)

  • マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話 - 世界のはて

    ここでいう「マイナス」は、劣等感とか抑圧とか差別とか、「人生の障害」的なもの。「プラス」は、「人生を楽しむ」とかそういうことなんだけど。 「マイナス」を持っている人間にとって、それを解消しようとすることは、人生の大きな「動機」になる。「動機」は「行動」を産み、「行動」は「充実」を産む。その意味で、「マイナス」を持っている人間の人生は、ある意味では充実しているということができると思う。 しかし「マイナス」が解決されたとき、その人はその後、何を「動機」にして人生を送ればよいのだろう?いま特に「マイナス」を持たない人間は、何を生き甲斐にすれば「充実感」を得ることができるのだろう? 僕は「ゼロをプラスにする」とは、要は「人生の楽しみ方を知っている」ということなのだと思う。しかしその努力や才能は、マイナスをゼロにする努力や才能とは、まったく異なるもののような気がする。 そしてこれまで「マイナスをゼロ

    マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話 - 世界のはて
    yugui
    yugui 2007/07/13
    この世界は解決を待っている魅力的な問題でいっぱいだ。この世界は解決を待っている魅力的な問題でいっぱいだ。
  • フェミニストとメンズリブ(マスキュリスト)が共に主張すべきことは - 世界のはて

    ↑の記事に書いたように、僕は中性的で男社会が苦手なので、「男性性から開放され、オンナのように生きたい」と思うことが時々ある。僕がジェンダーフリーの思想に結構興味があるのは、それが「オトコのように生きたいオンナ」による、女性性からの開放運動であるからなんだろう。 で、僕のような「オンナのように生きたいオトコ」が生き辛さを感じるのは男社会に対してなんだけど、「オトコのように生きたいオンナ」が生き辛さを感じる対象は何かって言ったら、これもやっぱり男社会になるのかなぁ?たぶん。女社会ではなくて。 この非対称性はどこから来るんだろう?って考えてみたんだけど、そもそもジェンダーという規範を作っているのが「社会」であるのだから、それを逸脱した生き方を望む人間が直面するのはどっちにしろ「社会」であり、その「社会」を構成しているものが「男的なもの」である限り、ジェンダー論が常に「男社会」との闘争になるのは当

    フェミニストとメンズリブ(マスキュリスト)が共に主張すべきことは - 世界のはて
    yugui
    yugui 2006/06/03
    原点。見忘れないように。
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