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ブックマーク / note.com/sensou188 (2)

  • 空襲の後、命をつないだ罹災証明書ー地域によってバラバラだった|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    空襲で被災した人には、役所や町内会などから、被災したことを証明する「罹災証明書」が発行されました。これによって特別に配給(有料)を受けたり救援物資を受け取れたりすることができます。また、疎開の切符購入にも必要でした。表題写真とこちらは、きちんと日用品や料品の配給証明書がついた東京都のものです。被害が大きいうえ何度も空襲されているので、きちんと印刷したものが用意されたようです。 1945年5月27日に発行された3人世帯への罹災証明書裏面 あくまで、応急の割り当てであり、優先して購入できるというものでした。それだけでも貴重であり、ぼろぼろになるまで役所通いをしていろんな便宜を図ることができたのです。 配給(有料)割当量。5日分を購入できた こちら、水戸市の罹災証明書で、1945(昭和20)年8月2日発行。71歳の1人暮らしの方です。これで毛布の支給を受けています。紙で補強してあり、都度、特別

    空襲の後、命をつないだ罹災証明書ー地域によってバラバラだった|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
    Guro
    Guro 2024/08/02
  • 歴史を見ないことにするため、追悼碑を破壊するところまでやってきた。次は何をやらかすか。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)

    記録するということは、その時点の事実を後世に伝える意味があります。 記録したいことがあるので、記録する。それは過去のことも現在のことも同じです。あらゆるところに記録が残れば、必ず誰かの眼につき、考えるきっかけになるでしょう。 2024年1月30日付の信濃毎日新聞の記事と、2月1日の各新聞社の報道を合わせてみますと、2004年に群馬県議会も全会一致で旧陸軍岩鼻火薬製造所の跡地に設けられた高崎市の県立公園「群馬の森」への設置を認めた戦時下の朝鮮人労働者の追悼碑を、群馬県が2024年1月29日より2月11日までの工期で撤去する工事を開始。1月31日には、追悼碑はがれきの山になっていました。設置当時の団体の後継団体に対し、撤去費用約3000万円を請求する予定とのことです。 撤去工事の期間中は公園への立ち入りが禁止され、報道各社は上空から工事の様子を撮影しました。また、工事前日には警察を大量動員して

    歴史を見ないことにするため、追悼碑を破壊するところまでやってきた。次は何をやらかすか。|信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
    Guro
    Guro 2024/02/01
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