タグ

ブックマーク / khideaki.hatenadiary.org (6)

  • 内田樹さんの分かりやすさ 2 - 数学屋のメガネ

    内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の中から、なるほどそのとおりだと思えるような説明を抜き出して、それがどうして分かりやすいのかということを考えてみようと思う。 内田さんは第1章で構造主義に先行する思想史を作った巨人として、マルクス・フロイト・ニーチェについて書いている。このうち、フロイトを語った部分での「抑圧」という用語の説明が実に分かりやすかった。「抑圧」という言葉を辞書的に解釈すれば、「抑制し圧迫すること。むりやりおさえつけること」と書かれている。だが、この概念ではフロイト的な「抑圧」を理解することが出来ない。 フロイトが語る「抑圧」とはあくまでも「無意識」という心の領域の働きのメカニズムとして提出されている。この辞書的な解釈では、「無意識」の働きで起こっているのではなく、自分で自覚して「無理やり押さえつける」ということをしているように受け取れる。この「抑圧」は無意識の「

    内田樹さんの分かりやすさ 2 - 数学屋のメガネ
  • 空気を読むこととそれに支配されること - 数学屋のメガネ

    今週配信されたマル激では、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止問題を中心にして言論の自由の問題が議論されていた。ある種の表現に対して、それに感情的に反発する人の圧力で、その表現が封じ込められるというのはまさに「言論の自由」に抵触する問題になるだろう。 その表現を批判するのは、これもまた言論の自由の一つに違いない。しかしそれはあくまでもまともな批判であるべきで、表現そのものを封じ込めるようなやりかたであってはいけない。映画「靖国」については、その内容のどこが批判されるべきかという内容が議論されるよりも前に、上映する映画館のほうが、映画館自体や観客にある種の損害が生じるのではないかということを危惧して上映を中止している。内容的に批判が妥当だったから上映中止になったというのではなく、暴力的な圧力によって恐怖を感じたことによって上映中止になっている。そこが結果的に言論の弾圧になっていると指摘され

    空気を読むこととそれに支配されること - 数学屋のメガネ
  • 貧困で幸せはあり得ないか? - 数学屋のメガネ

    今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっても深刻な自分の問題として迫ってくる。「格差」であれば、そんなものはあまり関心のない現象に見えてくるが、「貧困」というものは、今はその中に落ち込んではいないものの、将来的・あるいは子どものこれからの人生を考えた場合、それに直面する恐れというのは深刻に感じるところがある。 マル激の中では、「貧困」と「貧乏」は違うということも話されていた。「貧困」は、人間にとって基的な衣・・住の問題で、生活困窮に陥るほどの窮乏生活に陥ってしまうことを意味するものとして語られていた。それに対して「貧乏」というのは、単に金がないという現象を指すだけのものとして語られて

    貧困で幸せはあり得ないか? - 数学屋のメガネ
  • 知られていない重要な情報の集め方 - 数学屋のメガネ

    僕は、神保哲生・宮台真司両氏の「マル激トーク・オン・デマンド」で新しい情報に接することが多い。ここで接する情報を新しいと感じるのは、それが他の媒体では得られないからだ。特にマスコミのニュースでは決して流れてこないような種類の情報がここにはあふれているのを感じる。 今週のマル激は無料放送をしているので、関心のある人は聞いてみるといいと思うが、山口二郎さんをゲストに招いたその放送で、遊就館の展示が、アメリカの要請で変えられると言うことを語っていた。これは知っている人は知っているのだろうが、僕はマル激を聞いて初めて知った。 この情報が正しいというのは、神保・宮台両氏それから山口二郎さんに対する信頼感から、まず間違いはないと思ったが、インターネットで検索をして一応確かめてみた。そこでヒットした情報は次のようなものだ。 1 「遊就館 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

    知られていない重要な情報の集め方 - 数学屋のメガネ
  • 2006-05-25

    自らの中にある偏見に気づき、「構造的無知」から解放されて自分を冷静に眺めてみると、「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という法則を自分が実践していたのを感じる。自らが正しいと信じた行為によって、僕は多くの人を攻撃してしまったことに気がついた。それが正しいと思っていただけに、歯止めが無くエスカレートしていってしまったようにも思う。 そのようなことを見抜いていた人からは、僕のような人間は、まったく軽蔑に値すると思われても仕方がないと思っている。何を言われようとも返す言葉がない。しかし、コメント欄に暖かい言葉をかけてくれる人がいるのを見て、このような軽蔑すべき姿をさらしてしまったにもかかわらず、出直そうとする姿を暖かく受け入れてくれる人がいると言うことに、大きな感謝を感じる。人の心の温かさを感じて、ただありがたいと思うだけである。 それに勇気を得て、自分にとってはもっともつらい自己批判

    2006-05-25
  • トラックバック先のエントリーに対する雑感 - 数学屋のメガネ

    トラックバック先のエントリーでの批判はほとんど的はずれだと感じているのだが、部分的に気になるところを雑感として記録しておこう。まず「こんな主張誰がしてるの?」の中の次の部分だ。 「ちなみに、「クラス名簿を男女混合にする」ってのは、あるかもしれない。しかしその真意は、「男女別にする正当性はどこにもない」というところからきているはずだ。もちろん、「男女混合」にもいろいろなものがあるだろう。家がお金持ちの順番とか(笑)、背の高さ順とか、学校から家までの距離が短い順とか。そのどれもが恣意的でしかない。もちろん、「あいうえお順」だって恣意的なのである。しかし、どんな順番も恣意的であるなら、その暴力的な要素が少なく、かつ調べるコストがかからないような順番がよいであろう。「あいうえお順」が最も正しいとは思わない。それに代わってより暴力的でない案があれば、僕はそちらに乗り換えてもいいと思っている。ただ現状

    トラックバック先のエントリーに対する雑感 - 数学屋のメガネ
  • 1