いつものようにサイードを理論的背景として、娼婦の世界を描いた吉行淳之介も永井荷風もミソジニー(女嫌い)なのだと指摘している。要するに、男性作家の描く女は、<女という夢>であるということだ*1。なぜ彼らがミソジニーなのかは、前号で述べていた分断支配の話を応用すれば十分理解可能である。 上野は次のように締めくくる。 対幻想とは、男の見た夢だ、とは斎藤環*2の慧眼である。男の性幻想にはまって、そのなかで<夢の女>を共演してあげようとした女もいたかもしれない。だが、今日びの女はそんなばかばかしいことをやってられないと、男のシナリオから降りはじめた。男が現実の女から『逃走』して、ヴァーチュアルな女に『萌え』るのは、昔もいまも同じである。*3 3点ほど疑問がある。まず、第一点。斎藤環を大変褒めておりますけれども、単に「女は存在しない」ことの論理的帰結であって、上野としてはむしろこのラカニアン的男根中心