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倫理に関するTZKのブックマーク (6)

  • 最貧困男子、『ギャングース』、止むにやまれなさの倫理

    匿名記事で、こういうものがありました。 なぜ「最貧困少年少女」は救いにくいのか 最貧困「男子」について語っているもので、困窮状態にある少女が性風俗などの「被害者」にされる傾向がある一方、同様の少年は犯罪組織などに取り込まれ、オレオレ詐欺などの「加害者」にされることがままある、ということです。 風俗産業などで搾取される少女に対しては、貧困家庭で育たなかった人々でもシンパシーを抱きやすいのに対し、後者の少年らについては、なかなかそういう感情が向けられにくいです。相対してみれば、むしろこちらの生活を脅かす存在となりうるわけですから、自然なことです。 また、こうした少年ら自体、「一般人」の大人が救いの手を差し伸べることを「上から目線」と感じ、嫌います。一方、同じような生い立ちである「裏社会」の先輩にはなつき、尊敬し従うこともあります(これは伝統的なヤクザ社会がやってきたことです)。さらに、もし「一

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  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    トルコ水紀行 -前編 イスタンブール- みなさんこんばんは、地図子です!8月は久しぶりに毎月更新にしようと思います。今までずっと名古屋について書いてきましたが、ワープして・・・ トルコについて書きたいと思います。 2024年6月に念願のトルコに行ってきました。いつからトルコに行きたかったかわから…

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    TZK
    TZK 2009/11/03
  • 柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去

    柴村仁が嫌いである。 いやまあ、人は「会えばいい人」なのかもしれないが、彼女の書いたものはことごとく嫌いなものが多い。 ぼくが読んだ限りにおいて、彼女の小説のスタイルについては次のような印象を持っている。つまり誰かが死んだこと、または何かが失われたことがまず強烈なインパクトとして存在していて、その事実を中心に物語が回っていく*1。『プシュケの涙』がまさに典型的だが、『我が家のお稲荷様』もそうで、あの話の構造は要するに死んだ母親の縁で胡散臭い奴らがわらわらやってきて、死んだ母親の話をして帰っていくというものだろう。死んだ母親が物語の中心にあって、ことあるごとに母親が死んでいるということが思い出さされるのだ。 それで、なぜそういった喪失を中心とした物語(くーきょなちゅうしん、とか言いたければ言えばいい)が嫌いかというと、そうした物語はたいてい「見下ろす視線」というものを構造として保有している

    柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 恥の意識がなくなったら終わり - チョコっとラブ的なにか

    好みのタイプは?と聞かれて「武士*1っぽい人」とよく答えていた私としては、日に恥の文化が失われつつあるなーと言うのは寂しいことでもあったりする。 今日、面白いもの*2を見かけたので、紹介するけど、これを書いている方のハンドルネーム?は「摂政関白大アホ大臣」と言う、ガクぅと脱力なお名前の方で・・・ 恥の文化から恥知らずの文化へ (中略) 親が戦中派である世代までは徹底的に「恥の文化」を教え込まれた。曰く「恥ずかしくて世間に顔向けが出来ない」曰く「恥ずかしくて夜逃げしなければならなくなる」曰く「恥をさらしながら生きていくくらいなら死んだ方がましだ」などなど。しかし、「戦争を知らない子供達」などという歌を歌っていた世代以降にはこの様な考えはなくなったらしい。他の人権にくらべて、やたらに突出したプライバシー権によって、犯罪者の人権のみが無限に擁護される。 努力もしないで他人の成功を妬み、自己の権

    恥の意識がなくなったら終わり - チョコっとラブ的なにか
  • 『私は、私自身の原因である』 - kom’s log

    殺害予告を私は受けたらしい。 2007 年10月07日 hashigotan 殺, やられた分の反撃「なんじゃこりゃ」とはなんやねんオドレは調子に乗るなよ若造が!お前は不妊治療中の女と子供の居ない女を敵に回したも同然の反応を示したのだお前のような糞ガキに人の痛みが解るわけなかろうがチンコ切り落とすぞ 殺す、といわれたのは実に久しぶりなので経緯などを含めてメモしておく。一ヶ月前にたらたらとネット・トラバースしつついろいろな記事を読んでいて、「なんじゃこりゃ」という短いコメントを付してとある記事をブックマークした。、『世の中の非常識な子連れ主婦に対して注意したい事(俺が納得するまで続く)』という文章である。5つの節にわかれており、社会道徳を説いている。そしてこの社会道徳はどうやらこの筆者自身が感じている不快さによって根拠付けられる道徳らしい。これに私は少々困った。社会道徳と、筆者の個人的な不快

    『私は、私自身の原因である』 - kom’s log
    TZK
    TZK 2007/11/19
  • 愛と暴力の間 - G★RDIAS

    杉田俊介が、弱者暴力についての批判を書いている。暴力の加害者は、ときに、別の暴力の被害者でありうる。そのとき、加害者は、過去の被害体験を持ち出して、自己のふるった暴力を正当化することがある。そのことについて、杉田さんは、簡潔に述べている。 この数年、私自身のだめさをふくめて、自分の足元を鶴嘴で掘り進めたあげく、行き当たった岩盤(足場)のありかを今、一つだけ再確認するなら、それは「かつて悲惨な被害にあった当事者が、それを理由に、別の人間に何をしてもいい、傷ついた人間が直接間接に他人を傷つけて構わない、とは言えない」、という単純な事実であるらしい。 杉田俊介「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)」『いきすべき批評』(http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_10.html) 読んでいて、私もこの数年の自分のだめさが頭を駆け巡った。 これ

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