教授のキャリア初期は、YMOメンバーの一人としてシンセサイザーによるサウンドを縦横無尽に操っていた姿が強く印象に残るが、意外にもYMO時代には、ヤマハのシンセはほとんど使用せず、海外ブランドのシンセサイザーを中心としたシステムを構成していた。ヤマハシンセが多用されるのは、YMO散開後のソロ活動後のこととなる。 「DX7」が使用され始めたのは、1984年10月に発売されたソロアルバム「音楽図鑑」からである。このアルバムは、1982年10月からレコーディングが開始しており、発表まで実に2年近くの年月を要しているが、折しもこのアルバムの制作期間中に、ヤマハ「DX7」が発売された。「DX7」のFM音源システムの音色クオリティ、編集性、拡張性に教授は興味を示され、音楽制作、ライブ活動での使用が本格的に始まった。「DX7」のアルゴリズムの解釈を「DX7はポリモジュレーションが縦にも横にも並んだ音作りが