戦後69年の「慰霊の日」の23日、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が糸満市摩文仁の平和祈念公園で執り行われた。県内外から約4600人が参列。沖縄戦で亡くなった人を追悼し、非戦と恒久平和の誓いを新たにした。
クリックで拡大(PDFファイル2.41MB) 沖縄戦で犠牲になった20万人余のみ霊を慰め、世界の恒久平和を誓う「沖縄全戦没者追悼式」が23日午前11時50分から、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開催された。平和祈願慰霊大行進は午前9時に糸満市役所を出発し、南部の激戦地を回った後、追悼式に合流した。正午には参列者が黙とうをささげた。式には安倍晋三首相や伊吹文明衆院議長、山崎正昭参院議長のほか、キャロライン・ケネディ駐日米大使が出席した。 喜納昌春県議会議長は式辞で「オスプレイの強行配備など幾度となく県民の民意は踏みにじられ、政府への不信と怒りは限界にきている」と述べ、米軍普天間飛行場の早急な閉鎖・撤去や沖縄の過重な基地の負担軽減を政府に求めた。県遺族連合会の照屋苗子会長が追悼の言葉を述べ、普天間飛行場の県外移設を求めた。 安倍首相らの献花の後、仲井真弘多知事が平和宣言を読み上げた。また石垣市立真
シルクロードは貴重な文化遺産が残る地域であり、その中にはユネスコの世界遺産に登録されたものもあります。そこで、ユネスコ世界遺産という観点から、ディジタル・シルクロード・プロジェクトが扱う文化遺産を整理してみましょう。 まず基本情報として、シルクロードに関する概説や地図をご覧下さい。 シルクロードツアー - DSRイマジナリミュージアム ヒストリカルツアー - DSRイマジナリミュージアム 貴重書で綴るシルクロード 西域文明の発見 次に、地図からユネスコ世界遺産を探して、ディジタル・シルクロードが公開する文化遺産データを見てみましょう。下の地図で、赤いマーカーは本サイトがデータを提供する世界遺産、白いマーカーはその他の世界遺産です。地図には、2014年に登録されたシルクロード天山回廊に含まれる世界遺産、およびシルクロード周辺地域で本サイトと関連する世界遺産を掲載しています。 なお「シルクロー
歴博が所蔵する『永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)』は、戦国時代に行われた京都から東北までの長大な旅の記録であり、物やサービスの具体的な支出を記録した史料としても稀有のものである。その内容からは、お金さえ払えば宿泊や食事ができるという中世後期の旅行システムの充実ぶりや、旅籠(はたご)に支払うのが朝食代と夕食代のみであるといった、当時の旅の様々な側面が明らかになってくる。 『永禄六年北国下り遣足帳』という史料 永禄六年(一五六三)の秋九月、京都の醍醐寺から北国に向かって旅立った僧侶がいた。これは、その僧侶が記した旅の消費の記録である。帳面の題は「北国下リノ遣足」とあるのみで、目的は不明だが、しかしそれが公的なものであったことは、このような会計帳簿を作成していたことから明らかである。このような支出メモは、当時「小日記」と呼ばれていたようで、大徳寺や東寺にも同じような旅の会計簿が残されてい
BS歴史館 NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤本正行『信長の戦争』講談社
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