――拉致問題の取材を始めたきっかけは。 2002年10月、拉致被害者5人が24年ぶりに日本に帰国したとの新聞記事を読んだのが始まりでした。あまりにも信じがたい話だと驚き、興味を持ちました。前年9月11日の同時多発テロ事件で米国社会から自由が失われ、気が滅入っていたこともあって、日本社会を劇的に変えた拉致事件の取材にのめり込みました。 日本の友人から「02年に北朝鮮が拉致を認めたことで日本は、米国が『9.11』に遭ったときと同じような衝撃を受けた」と聞いたが、最初は意味がわかりませんでした。そのうち、日本人も米国人と同様、安全と思い込んでいた世界が実は冷たく敵意に満ちた危険な場所と知った、ということなのだとわかってきました。 ――近著「『招待所』という名の収容所」には、帰国した拉致被害者に直接取材した貴重な証言も多く盛り込まれています。 日本語も韓国語も話せない中、我ながら無謀な取材だと思い
ダ・ヴィンチが科学の先駆者でもあったことは広く知られている。ノートに記された膨大な数の地図、新兵器、幾何学、解剖学、地質学、植物学、天文学に関わるデッサン図、日記や覚書からは、科学に対する彼の旺盛な好奇心が窺える。裕福な家庭の非嫡出子で、正規の教育を受けたことはない。絵画以外はすべて独学だった。完璧主義者で、未完成の作品が多かった。前払い金を受け取っていても、納得のいかない作品は完成させなかった。 この本は、ダ・ヴィンチに関して誰も知らなかった新事実が記されているわけではない。本書の一番の魅力は、彼の人間的な側面が生き生きと描き出されているところにある。栄誉よりも自分の興味を優先させてしまうので、書き溜めた解剖学や物理学に関する膨大なメモやスケッチも、出版には至らなかった。物事を仕上げられない自分に絶望もした。自分に厳しい一方で人との競争には興味がなく、他人には寛大だった。それでも正反対の
“Once Unthinkable, Now Possible: Senate Looks Like a Tossup in 2018” 2017年12月14日付 ニューヨーク・タイムズ紙 米国の大統領選は4年ごとだが、その間にmid-term election(中間選挙)がある。全下院議員と任期満了となる上院議員が改選される。両院とも現在は共和党が過半数を占めるため、民主党はトランプ政権の政策に待ったをかけるのが難しい。 今回の記事は、民主党がそんな状況を打開できるかもしれない今年の中間選挙を取り上げている。下院は昨年12月現在、共和党239人に対して民主党193人で逆転は難しいが、上院は数人の違いなので射程内だ。しかし去年のこの時期には、今年の中間選挙で民主党がtake back the Senate(上院の支配権を取り戻す)ことはunthinkable(想像もできない)ことだった、と
[第23回]マイケル・ブースの世界を食べる Photo:Toyama Toshiki 1年ほど前に米国大統領になったあの人がよく使う言い回し「偉大な国」。ブースさんは今回、あえてこの表現で自らの日本への愛と敬意を綴ります。 みなさん、おめでとうございます。私たちは今年、ともに記念すべき10周年を迎えます。このコラムの読者と筆者として、ということじゃありません(あくまでもそう見えるだけです)。若かりし私たち一家がみなさん方の偉大なる国、日本を初めて訪れたのが、かれこれ10年前なのです。ありがたいことにこの10年、日本のあらゆるものに対する憧れは増すばかりでした(ただし納豆は別……。あの味だけは一生わからないでしょうが)。 さかのぼれば当時、私たち(少なくとも私自身)は本を書くためにやってきた。妻と息子たちは単に冒険気分だったことだろう。北海道から沖縄まで、日本を端から端まで旅してきたが、その
「1、2年はよくても……」元審議委員は助言したが 今年初め、元日本銀行審議委員の中原伸之(83)は、日本銀行総裁の黒田東彦(73)と二人きりになった場で、こう語りかけた。 「この1、2年はよいとしても、その先は見通せないよ」 黒田の5年の任期は、4月で切れる。もし再任を要請されても、慎重に考えるべきだという趣旨だった。黒田は、中原が意外に思うほど真剣な表情で聞いていた。 東燃(現JXTGエネルギー)社長などを務めた中原は、安倍晋三首相を囲む財界人の会合を10年以上主催、安倍に助言をする仲だ。 だれが黒田の後任になるのか、黒田の再任なのか、金融市場はかたずをのんで見守っている。続投すれば、1964年まで日銀総裁を務めた故・山際正道以来、半世紀ぶりのことだ。 5年にわたる景気拡大、上がり続ける株価、24年ぶりの低水準にある失業率……。 2012年末に発足した安倍内閣の経済政策「アベノミクス」の
消えた財務長官のプレート ワシントンのFRB本部のビル内には、FRB高官だけが使える特別図書室がある。古めかしい木製のテーブルの縁には、初代FRB理事の名前が刻まれたプレートがつけられているが、かつて財務長官が座っていた、一番上座のプレートだけが外されている。 FRBは1951年に財務省と「アコード(合意)」を結ぶまで、戦費をまかなうため低金利を強いられ、財務省に従属的だった。FRBの歴史に詳しいニューヨーク大学教授のウィリアム・シルバーは「財務長官のプレートを外した物語は、財務省に従属した歴史を忘れないというFRBの意志の表れだ」と話す。 中央銀行はなぜ、政府から独立しているべきなのか。最大の理由は、中長期的な経済の安定を目指す中央銀行と、選挙の洗礼を受けるため、目の前の成果を求めがちな政治家の利害が、ときに対立するからだ。 1951~70年にFRB議長を務めたウィリアム・マーチンは、中
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