日々, 読書 代休。寒い。例によって憂鬱ひどく昼ごろようやく起きる。あいからわず左目と左こめかみが痛い。寝て起きたのに(つまり休めた直後に)痛いというのはどういうことなのか。今日はTが長野に帰るということなので出かけるしたくをして上野まで送っていく。今回は僕の調子が悪く、申し訳ないことをした。 Tを送った帰り道、やはり目と頭が痛く、去年から何度か眼科に行っているもののあまり良くなる気配はないので、仕方なく大塚駅まで行って脳神経外科に行く。28歳にしてCTスキャンデビューした。自分の脳なんて初めて見てちょっとテンション上がる。結果的には脳に異常はないとのことでよかった。 が、僕はどうも脳の右目の後ろあたりに先天的奇形があるということがわかってしまった。オーノー! 僕は昔ブレイクダンスをしていた頃、右側頭部をしこたま床で打ったことがあるので、「そういうの関係ありますか?」と尋ねるのだったが、先
俳優の池部良が亡くなった。一九一八年生まれだから九十二歳だった。言わずと知れた、と言っても若い人たちは知らない人の方が多いかもしれないが、少なくとも昭和のうちにものごころついた人たちにとって、池部良は昭和を代表する映画俳優だったわけだが、私と妻にとってはここ二、三年、毎月一度は話題にのぼるひじょうにホットな現役の書き手だった。 「銀座百点」という、銀座の名店を紹介するPR誌というのかなんというのか、とにかくそういう月刊の冊子があり、池部良はそこで毎号「銀座八丁おもいで草紙」というエッセイを連載していて、これがもうメチャクチャおもしろい! それで池部良の本を調べてみると『そよ風ときにはつむじ風』という一九九〇年に出版された本を皮切りに、続々出てくる。 「日本文芸大賞も受賞するほどのエッセイの名手であり、」みたいな紹介文もあるが、賞なんかとっていてもつまらないエッセイはいくらでもある。池部良の
日本がダメになったのは、何だかんだ言っても、アジアのなかでそれなりに近代化の歴史も古く、ノーベル賞もたくさん出ているような立派な国だからかもね。シンガポールの人たちは、自分たちには何もない、と必死になっている。オレたちも、初心に返れば!! しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、おはようしてからちょこまか動いてた。もう7時過ぎた! 秋味(1)秋が深まってきていることでもあるし、私の生まれた年(1962年)に公開された小津安二郎監督の『秋刀魚の味』について書こう。 http://bit.ly/99ym9u 秋味(2) 小津安二郎の凄いところは、ごく普通の人たちの、ありきたりの生活を描いて、地上でありながら天上の気配を感じさせるところ。『秋刀魚の味』でも、娘が結婚する以外には何の「事件」も起こらない。それでいて、切れば血が出るような凄みがある。 秋味(3)妹がひそかに思いを寄せていた三浦君に、兄
このあいだ小学校の同級生三人と会って、鎌倉で酒を飲んだ。卒業は一九六九年三月だから四十一年ぶりだ――と、会うきっかけとなった今村は思っていたのだが、今村とは高校の頃に何度か鎌倉駅や横須賀線の中で会ったり、一度は家に来たりもしたが、今村はそんなことはすっかり忘れていた。 通販のカタログ雑誌の編集者が去年の秋、 「保坂さん、何かお奨めのギフト食品はありませんか?」と言ってきた。私は食べ物にはほとんどこだわりがない。あれが旨い、これはいいんだけどちょっと……みたいなことを言うのはさもしい気がする。「このあいだ誰々の結婚式に出たんだけど、料理がよくなくてさあ。」なんて、おまえは結婚のお祝いに行ったんじゃなくて飯を食いに行ったのかと言いたくなる。勤め人時代、同僚がよく「××部の△△課長がちょっと相談があるって言ってるんだけど、おまえも来てくれよ。」と言ってきて、私が面倒くさいからイヤだと答えると、
保坂和志『言葉の外へ』P.150 「想像力の磨耗」というコラムの一節。 考えるということは「答えること」ではない。考えるということは「疑問を出すこと」だ。考えることが「答えを出すこと」だと思っている大人は、すでにそれだけで学校教育の悪い面におかされている。答えが一つしかないと思っている人は、もっとひどくおかされている。 疑問を出すことは答えることよりも難しい。たとえば、リンゴが落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したとされているけれど、発見つまり答えより先に、「何故落ちるのか?」という疑問があった。ニュートンは、「何故落ちるのか?」という疑問を出すことができた人だったのだ。 同じようなことをドラッカーも言ってた気がする。「正しい答えではなく、正しい問いが必要」みたいなことだ。「間違った問い」から得られる「正しい答え」ほどやっかいなものはないとかなんとか。 「最近の人」(なんて言うと年寄
◆◇◆遠い触覚 第一回 「いや、わかってますよ。」◆◇◆ 「真夜中」 No.1 2008 Early Summer 小島信夫の代表作は『別れる理由』ではなく、『私の作家遍歴』と『寓話』だ。正確なところはいまは調べるのが面倒なので調べないが、『別れる理由』は一九六八年から八一年まで約十三年間『群像』に連載され、『私の作家遍歴』は七〇年代半ばから八〇年まで『潮』に連載され、『寓話』は八〇年から八五年まで、はじめのうちは『作品』に連載され、『作品』が廃刊になったあとは『海燕』に連載された。小島信夫はこの時期、他に『美濃』を七七年から八〇年まで、『菅野満子の手紙』を八一年から八五年まで文芸誌に連載した。 この中で『別れる理由』ばかりが長さゆえに有名になってしまい、『別れる理由』はその評判のために意外なことに三刷か四刷まで版を重ねているのだが、内容のとりとめのなさにたぶんみんな辟易して、他の本にま
自分の思うことや考えを書いておきたいと思うので、そういう事を書いているが、でもそればかりでも、倦怠してどんどん煮詰まってくる。で、いいかげんにうんざりしてきて、もうとにかく、自分の思うこととか、自分の考えというもの自体が、耐え難く暑苦しくて鬱陶しくて、そうじゃない事ならなんでもいいから、いわゆるそういうこととは別の、自分とはまったく関係のない、ただの事を書きたいと思うことはよくあるので、あえて見たものを見たままに描写してみたり、どうでもいいと思えるような事を書いてみたりもするのである。そういうのは、読む人がどう思うかはともかく、書いてる本人にとっては、内容以前に、そういうのを書いてるというだけで、かなり爽快な気分になったりしているものだ。 しかしそうはいっても、どんな内容であれ、やはりある程度ずっと書き続けていると、自分の思いや考えとは別の、そういった自分から切り離された事を書いているつも
本紙の1月18日週の「人間発見」欄に5回にわたってインタビューが掲載された、元世界銀行副総裁の西水美恵子さんという人を私はまったく知らなかった。専門が英文学の妻も全然知らなかった。インタビューを読んで、二人で西水さんの人生に感動した。いくら畑違いとはいえ、こんなにすごい人を知らなかった自分達を恥じたが、まんざら私の無知ばかりが悪いわけでもなく、日本という社会は、海外にいてなお日本に直接的な利益をもたらしてくれる人でないと無視する傾向があるように思える。 しかし海外に行きっきりになって、日本とまったく関係なくその土地や組織で成果をあげる人ほど、ある意味、日本人を勇気づける人はいない。いや、日本人を勇気づけるのでなく、規制の枠と闘っている人を勇気づけるのかもしれない。この二つはえらい違いだ。いずれにしろ、西水さんのような人の存在を知って凹む人はめったにいない。 その西水さんの記事の2回目、進路
人が木や草花に関心を通り越して過剰とも見える思い入れをするとはどういうことか。 四、五年前、うちの最寄り駅の私鉄の駅舎がロータリーも含めた大々的改装工事をしたとき、ロータリーのまわりに立派な大きなケヤキが七本か八本か、あるいは十本ぐらいも生えていた。一人の初老の女性が駅員をロータリーに呼び出して、このケヤキを伐らずに残しておくように、抗議だか懇願だかしていた。そのケヤキは保存樹木として残しておくようにという、あまり大がかりではなかったと記憶するが、とにかく住民による運動もあり、結果、すべてではなかったが、五本か六本、ケヤキは残されることになったが、あのときの女性はその運動とは別に、彼女個人の意志としてやむにやまれぬ訴えとして、ケヤキを伐らないでくれと言っていたように見えた。 妻と二人で少し離れたところまで散歩したとき、車一台がかろうじて通れる程度の道の三分の一くらいを占めていた太い、これも
私たちの仕事はものを製造することではない。クライアントのマーケティングとマーケティング・コミュニケーション策定作業をサポートするサービスである。したがって、商品や営業現場の実態、さらには事業構想について知見はクライアントにかなわないとしても、生活者への洞察、思考の整理法、コミュニケーション効率、正しい言葉といった知識については、たとえ微差であっても、つねにクライアントの先を行くべく努力を重ねなければならない。同時に、先にあげたようなクライアント固有の知識については、つねに教えを請う姿勢で臨まなければならない。 つまり、学び続けなければ私たちの仕事は成り立たない、ということだ。こういう言い方をするとすぐに、OK、じゃあ教えてください、研修を!といった発想になる人がいる。もちろん、研修といった制度的な学習機会は重要だし、学習の根源では人との対話がかかせない、いやむしろ対話こそが学習だ、といえる
芥川賞に決まり、記者会見する磯崎憲一郎さん=15日夜、東京・丸の内の東京会館(荻窪佳撮影)(写真:産経新聞) 第141回芥川賞を受賞した磯崎憲一郎さんは15日夜、東京・丸の内の東京会館で記者会見し、喜びを語った。報道陣との一問一答は以下の通り。 直木賞一問一答 北村薫さん「正直、ほっとした」 《磯崎さんは、黒い上下のスーツに真っ白なシャツ姿で背筋を伸ばして登場、にっこりと笑いながら着席した》 −−まず、受賞の感想を 「もちろん受賞自体、うれしいのですが、小説家としては受賞によって書く場を与えていただけるということが大きい意味を持つ。とにかく一生、書き続けていきたい。90歳になるまで書いていきたい。実は私の誕生日は2月28日で、小島信夫さんと同じです。小島さんを目標にしてそのくらい長く生き続けていきたいと思っていましたので、そういうチャンスをいただけるのが、さらに大きい喜びです」
保坂和志は『途方に暮れて、人生論』のなかで、こんなことを書いている。 人生とは本質において、誰にとっても、「遅く生まれすぎた」か「早く生まれすぎた」かのどちらかを感じるようにできているものなのではないか。つまり、個人が人生において直接経験することなんてたいしたことではないし、他人に向かって語るべきものでもない。/ どう表現すれば人に伝わるかわからないのだが、自分の人生においてすら、自分が当事者であることは些細なことなのだ。(p.19) “遅く/早く生まれすぎた”感じ、というと、俺はビーチ・ボーイズの"I Just Wasn't Made for These Times"をおもい出す(邦題が"間違った時代に生まれた")のだけど、ジム・フジーリはこの曲について、『ペット・サウンズ』のなかでこう書いていた。 この曲を聴いたときに僕は思った。ああ、こんな風に感じているのは自分ひとりじゃなかったんだ
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僕は知らなかったのだけど、2年ほど前に、「検索ちゃん」で、爆笑問題太田光、品川庄司品川、土田晃之の3名が、そのタイミングのM-1グランプリについて誰かが「今年のM-1は小粒ぞろいだった」と書いていたことを巡って、「お笑い評論家って一体何なのか?」「ネタを作ったことがあるのか?舞台で結果出したことあるのか?」というようなやりとりをしたことがあったらしく、そのことが当時、ネット上で小規模な議論を引き起こしたらしい。 http://d.hatena.ne.jp/Sugaya/20070510/1178791853 大体同じような時期に、保坂和志と高橋源一郎が、(高橋源一郎は保坂和志に同調する感じで)「小説のことは小説家にしか分からない」という趣旨のことをよく言っていて、僕は単純にそのことを思い出した。 作者は、無数の選択肢の中から、その都度、ただひとつの言葉を選び、ひとつの言葉の連なりを形作る。
◆◇◆小説をめぐって(十四)第二期一回目◆◇◆ 第二期のために書きとめて壁にピンで止めたメモのようなもの 「新潮」2005年3月号 『ミシェル・レリス日記1・2』(千葉文夫訳 みすず書房)の一九四八年二月二十一日に全体でこれだけのことが書きとめられている。 わたしにとって(そしてまた確実にほかの多くの人々にとっても)、年をとったということは別にせよ、この数年間に、いかなる点で事態の悪化があったのか。 陰鬱な気分に浸りこんだ自分を感じるが、いまはこの気分に特別の価値をあたえることができない。 世界は何らかの点においてもっと生きるにふさわしいものに向かって動いており、——仮に個人的にはそこから利益を得ることはないとしても——それゆえに自分らの行動はこのような動きに組み込まれることで意味が生じるのだとはもはや考えきれない。 作家、画家、音楽家の日記を私は何冊も持っているがいままでどれも拾い読みし
以前、イヌイットつまりエスキモーの研究者が書いたこんな文章を読んだことがある。 「私たちのように都会に住む現代人には、イヌイットの人々の生活は一週間として送ることができない。狩猟の技術は言うに及ばず、排泄の仕方とその処理にしても私たちには大変な負担だ。私たちは彼らのことを簡単に『劣っている』と考えがちだけれど、彼らの方が私たちよりもはるかに優れている。」 エコロジーがブームになる直前の一九九〇年に読んだ文章なので、細部の正確さとなると心許ないが、意味としてはこういうことだった。最後の「優れている」は、もう少しやんわりと「自然について多くのことを知っている」だったかもしれないが、いずれにしてもこの研究者が言いたかったのは、都会に住む現代人は、イヌイットのことを簡単に「遅れている」とか「劣っている」という風に考えがちだけれど、生身のからだで過酷な自然と向き合う技術・能力・体力という面では、なま
◆◇◆HRI生き方リサーチレポート◆◇◆ vol.5『明日に向かい、いまを生きる同時代人たち』 2005年4月1日 ヒューマンルネッサンス研究所発行 http://www.hrnet.co.jp/ 「世代像がないから人生と向き合える」 まず最初に、自分がどういう世代なのか、ということなのだけれど……、一九五六(昭和三十一)年の十月に生まれた私にとって、小学二年で東京オリンピックがあって、中学二年で大阪万博があって、大学に入ったときには学生運動は終わっていた。バブルのときには三十歳前後で職場で一番働くポジションにいて、やたらと大事にされて礼儀も知らないバブル採用の新入社員に「なんだ、こいつら」という気持ちを持っていた。 いまは世代論が流行っているけれど、私の学年はどの世代にも属していなかった。というか「世代」というものを持っていなかった。私が中学、高校の頃、世代というのは「戦中派」とか「焼け
●散歩の途中で立ち寄った本屋で立ち読みをしていて、「真夜中」に載っている保坂和志の「遠い触覚 『インランド・エンパイア』へ(3)」がすごく面白かったので、立ち読みだけで済ませるわけにはいかなくなって、買って帰った。ぼくは一昨年の十一月に中央大学で保坂さんと対談していて、ここに書いてあることとほぼ同じようなことを確かにその時の保坂さんも言っていたということを思い出すのだが、改めて読んで、ここに書かれていることはやはりとても面白いし、とても重要なことのように思って興奮した。とはいえ、最近の保坂さんの文章は要約するのがほぼ不可能だし、要約してしまったらほとんど意味がなくなってしまうようなものなので、そのごく一部を引用して、それについてぼくが勝手に考えたい。 《夏の夜、羽化寸前の蝉の幼虫が地面を這っていた。それをみつけたお父さんが子供に、 「あ、これは蝉の幼虫だよ。ほら、蝉の抜け殻と同じ形をしてい
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