タグ

関連タグで絞り込む (0)

  • 関連タグはありません

タグの絞り込みを解除

戦争と子どもの人権に関するblanccasseのブックマーク (3)

  • 餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態(石井 光太) @gendai_biz

    骨に皮を被せたような子供たち 昭和20年、太平洋戦争が終結した後、神奈川県横須賀市の浦賀町にある木造の長屋のような建物には、大勢の身寄りのない子供が30人ほど、骨と皮ばかりの餓死寸前の体になって身を寄せ合っていた。 彼らの体は一様に皮膚病でただれたようになっていたが、薬一つつけてもらっていなかった。寒さからなのか、不安からなのか、震えて奥歯を鳴らしている者さえいる。手足は枯れ枝のように細く、一度すわり込めば立ち上がることもできず、声をかけられても何の反応も示さない。ただ、目の白い部分だけがぎょろりと光っているのである。 こうした子供たちの様子を、樋口宅三郎は次のように述べる。 一人として栄養失調ならざるはなく、顔色は土色で、もうこの上は痩せたくても痩せられぬという状態にあった。羽根をむしりとられた裸の雀の子たちが、私の迎えた孤児たちの姿であった。中には頭髪がすっかり抜け落ちてしまった女の子

    餓死寸前…日本人が知らない「引揚孤児」の過酷すぎる実態(石井 光太) @gendai_biz
    blanccasse
    blanccasse 2019/09/05
    「羽根をむしりとられた裸の雀の子たちが、私の迎えた孤児たちの姿(略)人間はここまで痩せ得るものか、ここまで痩せても、なお生きていられるものか」声の小さい者から見捨てられてゆく世界は嫌だ。
  • WEB特集 わたしはどこの誰なのか 戦争孤児をはばむ壁 | NHKニュース

    戦争で孤児になった女の子は実の親を知らないまま、5歳の時に里親に引き取られました。その後は仕事や家庭にも恵まれましたが74歳になった今、朝起きるとなぜか涙がこぼれてしまいます。 「わたしはどこの誰なのか。わからないままでは死ねない」 戦後74年。女性は人生の空白を埋める旅に出ました。 (制作局 田中淳/ネットワーク報道部 大石理恵)

    WEB特集 わたしはどこの誰なのか 戦争孤児をはばむ壁 | NHKニュース
    blanccasse
    blanccasse 2019/08/14
    「戦争をしたのは国です。その戦争によって親と引き裂かれた子どもがいる。私はまだ現在進行形なんです。終わってない(略)それなのに、孤児に出自を知らせない。それは国による長期のネグレクト」
  • 餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活(石井 光太) @gendai_biz

    当の戦争のはじまり 戦争の犠牲となるのは、いつもか弱き者だ。敗戦後、日には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人にのぼったといわれている。このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されている(「朝日年鑑」1947年)。 私は10年来、元浮浪児たちに会い、その体験を記録するという取材を進めてきた。2014年には『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)というノンフィクションに、それらの成果をまとめた。 その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。後に述べるように、浮浪児には戦災孤児以外からなった者もおり、それを合わせると膨大な数に上ったことは想像に難くないからだ。 元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。 「日の終戦記念日は昭和20年8月15日なんだよ。だけど、そこから先が、

    餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活(石井 光太) @gendai_biz
    blanccasse
    blanccasse 2019/08/13
    「1945年8月15日は、日本軍の兵士にとっては戦争の終わりだったかもしれない。だが、親を失い、路上に放り出された浮浪児たちにとっては、長い長い苦しみの人生のはじまりだった」
  • 1