コンテンツ氾濫が性欲に与えた大きな罪ってのは、架空の相手を自由に選べることよりも、架空の自分を自由に選べることの方がはるかに罪深いと思う。現実でも相手は選べるけれど自分は選べないから、こっちにはまってしまえば一瞬で帰ってこれなくなる。 [mb]
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先日の「物語夜話ラジオ」がおもしろかったので、インスパイアされて記事を書いてみる。 テーマは「あきらめたらそこで試合終了ですよ」。近頃、この言葉の意味をつくづく実感するようになった。そうなのだ。あきらめたらそれまでなのだ。 以前、ぼくは、この言葉を一種の根性論として理解していた。勝負が見えていてもとにかくあきらめずさいごまで全力を尽くせ、という意味だ、と。 しかし、最近ではもうすこし違う意味に解釈している。ひとは、じっさいには可能なことでも、不可能だと思い込んでしまうことがある。そしてそう認識したとたん、本当に不可能になるのだ、ということ。 たとえば、ぼくもそうだけれど、「自分は絵を描けない」というひとがいる。が、目が見えて、手が動かせるなら、物理的な意味では、描けないはずはないんだよね。 ようするにそれは「描けないと思い込んでいる」だけなのだ。もちろん、技術的な巧拙はある。そのままではへ
ようこそ「 徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)」へ。このウェブサイトでは『徒然草』の全段を現代語訳でご覧になることが出来ます。 更新履歴 基本的に大規模な更新は滅多に行われません。 2018.4.5 ご無沙汰しておりました。昨今のインターネット事情を鑑みてSSL対応しました。 2016.6.8 twitterのアカウントtsurezure_bot のメンテナンスをしました。 2016.6.8 原文にルビを振りました。 2016.6.8 ホームページをリニューアルしました。たぶん、スマートフォン対応できてます。 2009.10.15 twitterのアカウントを作りました。つれづれぼっと 2009.7.24 ホームページ・リニューアル。校閲と言うより訳し直しました。 2009.4.19 校閲が終わりました。 2008.6.6 「おりにかなう助け」を更新しました。 2007.6.3 リニューアル
この項目では、哲学的分野で言う超人について説明しています。キン肉マンのレスラーについては「超人 (キン肉マン)」を、テクノロジーを使って人間を超人化させる試みについては「人間強化」をご覧ください。 哲学的分野で言う超人(ちょうじん、ドイツ語: Übermensch、英語: overman、superman、super-human)とは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが提唱した概念の一つであり、そのような新しいあり方を体現する人類の呼称である(その、漢字文化圏における表記)。 ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。 哲学以外の超人について[編集] シッダ - インド
2024年03月09日22:21 カテゴリ本 マックス・ウェーバーのニヒリズム 日本人はニーチェが好きだ。彼はヨーロッパ(特にドイツ)では無神論者としてきらわれているが、日本では『超訳 ニーチェの言葉』などという偽書が100万部以上も売れた。その中身は「初めの一歩は自分への尊敬から」とか「いつも機嫌よく生きるコツ」といったハウツーものだ。天然ニヒリストの日本人にとっては、神が死んだかどうかなんてどうでもいいのだろう。 他方で日本には、大塚久雄以来の「ウェーバー学」の伝統がある。これは講座派マルクス主義の変種で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を金科玉条として「日本人の精神的自立」を説くもので、膨大な文献学の蓄積がある。 こうした近代化論的なウェーバーの読み方は日本特有のもので、歴史学では『プロ倫』は否定されている。『世界宗教の経済倫理』などの宗教社会学も、ドイツ語訳の2次文献
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマ
にげだめ(2):あしたのジョーと3C分析 前回、「つづく」といったからには続きを書かねば。どうも僕の書き物は投げ出しが多すぎる。 実際、こういう長文は読まれる回数もすくない自己満足だ。手間がかかるわりに得るものは少ないのだが、こういう「上手くいかなくても考えを文章化する」という不毛の地を一回本気で片付けないと、どうも僕は前に進めないようだ。本気が空回りして、伝わらないかもしれないが、お許されたし。 僕も、にげちゃだめだな、うん。 今後のあらまし 兵隊は、敵が怖いんじゃない。それ以上に、味方の視線=恥が怖いから逃げ出さないのだ。 サラリーマンは、上司が怖いんじゃない。同僚に負けたと思われるのが怖いから過労するのだ。 これが前回のお話。 この 「特攻隊的な何か」 という話の意図を表現するためには、まず「三角関係」のエネルギーについて説明しなきゃいけないようだ。 そんなわけで、エヴァンゲ
2009年10月31日11:12 カテゴリ本 廣松渉の哲学 70年安保のころの学生運動が残した知的な遺産はほとんどないが、当時の教祖的な存在だった廣松渉だけは、戦後の日本を代表する哲学者として歴史に残るだろう。当時、彼の講義には、他大学からも多くの聴講生がやってきて、いつも500人の大教室に立ち見が出た。その講義も、原稿なしで古今の文献を詳細に引用する濃密なもので、1回の授業で本1冊分の内容があった。 本書は、廣松のデビュー作(卒業論文!)である『世界の共同主観的存在構造』(第1章)を中心にして、彼の代表的な哲学論文を集めたものだ。彼のわかりやすい講義とは違って、文章は一見むずかしい漢字が多くて読みにくいが、彼の認識論の基本である「四肢構造」はきわめて単純で、いわばそれを公理系として展開する数学の論文のように書かれているので、基本的な図式が頭に入ると意外にわかりやすい。 廣松はマルクスの研
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "現実界・象徴界・想像界" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 現実界・象徴界・想像界 (RSI) 現実界・象徴界・想像界(げんじつかい しょうちょうかい そうぞうかい、仏:le Réel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。1974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schéma RSI)と概括され、RSIと略称される。 現実界[編集] ジークムント・フ
メタ(meta-、 古希: μετὰ-) とは、以下の意味を持つ接頭辞である: 一般的な意味 「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞[1]。 転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で[2]、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する[1]。 「変化」を意味する接頭辞。例えば metamorphose(変化)、metabolism(代謝)などで用いられる[3]。 化学における意味 ベンゼン環の2置換体の構造異性体のうち、2つの置換基が炭素原子1つをはさんでいるものにつける接頭辞[2]。 同じ酸化物を水和して得られるオキソ酸の中で、水和度の低いものにつける接頭辞[2]。 「ある学問や視点の外側にたって見る」という意味はアリストテレスの著書『メタピュシカ』(形而上学)に由来しており[1]、哲学では他にも「メタ倫理学」、「メタ哲学」等の用例がある。 数学基礎論や数理論理学では、数
たまたま、Dr. Tara C Smithのエントリで、とてもよい懐疑論の定義をしているBrian Dunningを知った:Brian Dunning: "What Is Skepticism?" 懐疑主義とは何か To quote Dr. Shermer: Skepticism is not a position; it's a process. マイクル・シャーマーの言葉でいえば、「懐疑主義は立場ではなく、過程だ。」 懐疑論者や批判的思考者は物事を信じない人々だという誤解が広まっている。実際、懐疑的という言葉の普通の使われ方は、この誤解が広まっていることを示している。「彼はスプレッドシートの数字に懐疑的だった」は、彼はその数字を疑っているという意味だ。したがって、懐疑的であるには、物事に否定的で、それらを疑ったり、信じなかったりすることだ、と。 懐疑主義という言葉の真の意味は、疑うこと
2013年09月08日17:30 カテゴリ書評/画評/品評SciTech NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」 著者本人より献本御礼。 単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二 2009.05.12 初出。原著に対する書評 2013.09.08 ブルーバックス版に更新 自筆サイン付き!(^o^)v←ゲシュタルト群化 そのサインには、「今回の本は一番気合いを入れて書きました」とある。「進化しすぎた脳」の著者がここまで言うからには、面白くないわけがない。 面白く「ない」わけが「ない」? 「面白い」と「面白くないわけがない」の違いは一体なんだろう? そこにこそ、単純な脳が、複雑な心を生み出す仕組みがあった。 「ゲーデル・エッシャー・バッハ」以来の Eye-opener, いや Mind-opener と認めるのに私は「やぶさか」では「ない」。 本書「単純な脳、複雑な「私」」は、今日本で最
科学と信仰は脳のなかでは同じらしいという研究の話が一日のニューズウィークに載っていた。「Fact Impact」(参照)である。リードは「New study of the brain shows that facts and beliefs are processed in exactly the same way(最新研究によれば、脳は事実と信仰をまったく同様に処理している)」というものだ。トマス・クーンの科学論以降の知識人にしてみれば、科学と非科学の差というものはなく、どちらも信仰の差であり、ようするにその知識集団の政治的差異に過ぎないというのはごく当たり前ことのようだが、かといって、現実社会にあって非科学と科学を一緒にするわけにもいかないので、社会的な便宜で線引きはしている。それでも、「極東ブログ:[書評]正しく知る地球温暖化(赤祖父俊一)」(参照)で扱った、微妙だけど決定的な問題と
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