毎朝、D&DEPARTMENT DININGの開店準備中には、大きな音で誰かのお気に入り曲が流れ、みんなきびきびと支度や掃除をしている。 僕の机はその横にあって、毎朝、実はそれを楽しみにしている。とてもセンスがいい。誰からか「掃除中に流す曲を編集してこい」とか、仕事のようにやっているのではなくて、おそらく、誰かが勝手に好きにやっている。個人の感覚でやりきっている。怒られたら謝って、やめるだけ。そんな「やりきっている」感じがあって、それを誰かが感じて、そこから何かが生まれる。そういうのがとても好きだ。密かに企みでやってもいい。とにかく、頼まれる前に何か「自分を出し切る」行為が好きだ。 デザイン事務所をはじめて、そのころのほとんどの仕事は自主プレゼンと自主企画展のふたつの「自主活動」だった。自分のやりたいようなテーマで展覧会をして、細かな造作も誰に何も言われずにやりきる。もちろん当たり前だけれ
私は戦争が終わって12年後に生まれた。本人としては子供のころ戦争なんて遠い昔のことだと思っていたが、今思い返すと、そして50歳まで生きて見ると、12年前なんてついこないだのことだと思うし、私ですらなんだかんだ敗戦の歴史感覚というのはちゃんとひきついた感じがする。まあ、時代ということだけだけど。 敗戦のとき、日本人にはいろいろな思いがあったけど、概ね、負けちゃったなということだと思う。あれだけがんばっても何にもなかったな。もうあれは全然だめだ、と。負けたら文句言うなよ、みたいな。 大本営みたいのを庶民はそれほど信じてなかったようだし、吉本隆明は信じていたみたいなことをいうけど彼はそのころ思春期というかお子ちゃまだったわけで、3つ年上の山本七平などは醒めていた(彼はちょっと醒めすぎだが)。でも、吉本ですら、庶民のなかにいたから、戦後の嘘はわかったものだったし、敗戦の感触というのはよく理解されて
福岡の事件を聞いて僕はひどくショックを受けた。事件の続報を追う気力が萎えてしまうには十分なほどに。断片的に伝えられた事件の背景に僕の子供のころと似ている点があったからだ。身体に障害のある母親、発達障害のある子供、子供が親を詰り、親が子供を殺した。それが僕が知っている事件の全てといっていい。そして学童保育という単語。学童保育。ガクドー。僕も、両親の仕事が忙しかったので学校が終わると家ではなくガクドーに寄っていた。もちろん喧嘩はしたけれどそこでの時間はそう悪いものでもなかった。図書室で本を借りて帰ればいくらでも想像の世界に没頭できたし、学校のものに比べると小さかったけれど鉄棒や滑り台といった遊戯具もあったし、ピアノやアコーディオンといった楽器もあった。いくらでも時間は潰せた。僕は扱いづらい子供だった。通信簿の備考欄みたいなところには「集団生活に難あり」みたいな記述がいつもあって、それをみても親
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