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女性と軍事に関するcustardtarteのブックマーク (3)

  • 「銃で殴られた母の姿は忘れられない」日本軍に抑留されたオランダ人女性が憎しみを手放す時 #戦争の記憶(小西晴子) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    オランダには、いまも日人から受けた心の傷みに苦しむ人たちがいる。80年前の1942年、植民地支配していたインドネシアで日軍の侵攻にあい、抑留所に収容された7万人あまりの女性と子供たちだ。料や薬の不足、そして日兵による暴力。そんなトラウマを持つ存命者の1人が、ティネケ・ファンデル・ウーデ・ズルヴァー(96)だ。インドネシアに侵攻した元日兵の父を持つ私は、オランダに彼女を訪ねた。ティネケが語った憎しみを癒やすためにできることとは(敬称略)。 【元日兵の父が語ったインドネシアでの戦争】 私の父、小西繁男がインドネシアでの戦争体験を初めて語り始めたのは、80歳になってからだ。 父が軍隊に召集されたのは、大学生の時だった。自由な学生生活を満喫していたが、1年半の厳しい軍事教練と精神教育を終えると、「我々が戦場で死んでも、忠孝という精神に安心立命を見出すことのできる日人は、実に幸いにして

    「銃で殴られた母の姿は忘れられない」日本軍に抑留されたオランダ人女性が憎しみを手放す時 #戦争の記憶(小西晴子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • エチオピア現代史における女性兵士  ―ティグライ人民解放戦線の経験―|有志舎

    眞城百華(上智大学教員、エチオピア現代史研究) (2020年5月21日) 「エチオピア」と聞き何を想起するだろう。アフリカの独立国、ハイレセラシエ皇帝、イタリアのムッソリーニ政権による侵略、1984年の大飢饉などがよく挙げられる。世界的ミュージシャン達による飢饉救済のためのLIVE AIDなどの音楽イベントを通じて、1984年から85年にかけて甚大な被害を生んだエチオピアの飢饉を知った方も多いだろう。エチオピアの飢饉と支援に国際的関心が集まったが、同時に飢饉の被災地が当時内戦の戦場でもあったことをどのくらいの方がご存じだろうか。そして当時のエチオピアの軍事政権と戦う反政府勢力には数万人もの女性が兵士として参加した。このことは、エチオピア国内においてもほとんど知られていない。 著者がエチオピア北部のティグライ州で元女性兵士に初めて会ってから17年になる。元女性兵士や紛争下の農村でゲリラ支援の

    エチオピア現代史における女性兵士  ―ティグライ人民解放戦線の経験―|有志舎
  • マニラ戦とベイビューホテル事件

    関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月 マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史 日軍による集団強かん事件について、調べたものです。地図は省略しました。 2012.4.15記 はじめに マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシアドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した。男たちだけでなく女

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