7月中旬、芥川賞を受賞した数日後のことである。ネット上で、そこそこ人気のある某右翼ライターがある記事を発表した。受賞会見をしている時の私の顔写真とともに掲載されたその記事によれば、「李琴峰の芥川賞受賞は、反日左翼による日台離反工作かもしれない」だそうだ。 ファンタスティック! この方のほうが私より小説を書くのに向いているかもしれないと思われるほどの、すさまじい想像力だ。これからも小説でご飯を食べていく者として、このライターの宣伝にならないよう、ひとまずここでは彼の名を伏せて、S氏と呼ぶことにしよう。S氏の該当記事の論旨は、ざっとこんなものだ。 「李琴峰は安倍前首相を批判した反日クズ原文ママだ。こんなクズに芥川賞が与えられるなど、芥川賞も随分と安っぽい賞に落ちたものだ。実際、日本の文学界は左翼と反日作家に乗っ取られて久しい。村上春樹などの反日文学者ばかりがチヤホヤされるから反吐が出る。しかし
1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。 城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄
記事:じんぶん堂企画室 早尾貴紀さん。東京経済大学の研究室で 書籍情報はこちら ――本書のキーワードは書名にもある「ディアスポラ」(民族集団の国境を越えた離散、離散した民)だと思います。なぜディアスポラなのでしょうか。 東西冷戦の終焉とグローバリゼーションの進展で、国境を越える移住者が増え、また、各地で地域紛争が起き、多くの難民が生み出されています。同時に、それに対する排外主義として、多くの国で自国第一主義が高まっています。この本はこうした世界を「ディアスポラ」の視点から見直そうという試みです。 『希望のディアスポラ 移民・難民をめぐる政治史』(早尾貴紀著、春秋社) ディアスポラという概念を使う理由は二つあります。一つは移民と難民は明確に線引きできないことが多い。移民は経済目的で自発的だといっても、故郷で困窮し、生きるためやむを得ず国境を越えることの方が多いと思います。難民も単に放逐された
-水野直樹・藤永壯・駒込武『日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する』、岩波ブックレット No.552、2001/2023 『日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する』水野直樹/藤永壮/駒込武 編(岩波ブックレット)重版分が入荷しました。 大好評『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の次に読むべきと話題になり、17年ぶりに再販が決まった一冊です。 pic.twitter.com/ABzAl26If0 — ジュンク堂書店プレスセンター店 (@presscenterten) 2023年10月16日 上記ツイートにもあるように、『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』がベストセラーになったのをきっかけに増刷されることになったブックレット。とりあげられている項目をみると刊行から20年以上たってもなお右派が同じことばかり繰り返していることがよくわかる。表面的には「軍艦島」などへの言及が増えると
生まれ育った中国から、両親の母国の日本に渡って32年。日本人として暮らしてきた高橋達雄さん(81)=鹿児島市桜ケ丘4丁目=は、今も周囲から中国人とみられているのではないかと思うことがある。 中国東北部の黒竜江省ハルビン市で生まれた。終戦間際の旧ソ連の満州侵攻後、軍人だった父親は幼子と妻を別々の中国人に売り渡し、日本に引き揚げていった。 3歳だった高橋さんを引き取ったのは、ハルビンから約500キロ離れた遼寧省撫順市の夫妻だった。馬車や電話があり、料理人も抱える裕福な家庭。養父母は優しく、肉親の記憶はだんだん薄れたという。 ■□■ 中国では1966年に「文化大革命」が始まり、1000万人を超える青年らが地方に送られた。高橋さんは6年早くその「下放(かほう)」の対象となり、28年間も山村での生活を余儀なくされた。 共に下放させられた養父は息を引き取る直前、「お前は息子じゃない。日本人だ」と告げた
2023年7月4日、厚生労働省から『国民生活基礎調査』の最新値が公表された。21年の相対的貧困率は15.4%。経済協力開発機構(OECD)が公表する各国の貧困率の最新値でみると、米国(15.1%)、韓国(15.3%)に抜かれ先進国最悪となった。『ルポ貧困大国アメリカ』が大ベストセラーになった08年から15年、日本は貧困大国になろうとしている。 相対的貧困率は改善しているが…… 厚生労働省は、国民生活基礎調査をもとに3年ごとに相対的貧困率を公表している。相対的貧困率とは、等価可処分所得が中間値の半分未満の世帯員の割合を指す。 日本では127万円未満が基準となり、おおよそ6.5人に1人が貧困状態にある計算になる。なお、以降は慣例にならい相対的貧困率を、単に貧困率と表記する。 前回調査時点の18年の貧困率からは0.3ポイント改善した。子どもの貧困率は2.5ポイント改善して11.5%に、ひとり親世
国際標準は貧困率を毎年公表、周回遅れの日本 日本(15.4%)、米国(15.1%)、韓国(15.3%)の数値だけをみれば、その差は僅かだと抗弁することもできるだろう。しかし、この3国の経年変化の数値をみたうえで、「今後、どの国が貧困率を改善できそうか」という問いにどう答えるだろうか。 なお、先の木下論文では、米国では月次で貧困率の推移を追っていることが紹介されている(p.57)。韓国も、毎年、貧困率を公表している。 これに対して、日本の貧困率が更新されるのは、現状のままでは3年後になる。数字の根拠となる国民生活基礎調査が、3年に1度しか実施されないからである。 日本政府がEBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)の推進を掲げて久しい。EBPMとは、政府の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づく
旧500円硬貨と500ウォン硬貨について2019年に上記のブログ記事を書きましたが、正直今見直すと甘さが多々見られるのでこちらで改訂版という形で記しとく。 90年代末の変造500ウォン硬貨事件について そもそも事の発端としては80年代にも一応確認は出来るものの、1997年ごろから激増していった変造500ウォン硬貨による旧500円硬貨の偽造問題があります。 出典:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gskaigi/kaikaku/wg/dai1/siryou3_zouhei2.pdfこの問題というのは旧500円硬貨と500ウォン硬貨の大きさが同じであり、重さはちょっと重い程度なので穴をあけて軽くする事によって自販機に「変造500ウォン硬貨=500円硬貨」という誤認識をさせ、その後に払い戻しをすると500円硬貨が出てくるという事を利用した犯罪行為です。また貨幣価
<アカデミズムとジャーナリズムの架け橋を担う論壇誌『アステイオン』が問う、今の問題とは? 「アステイオン」ウェブサイトより、文芸評論家の三浦雅士氏による「「再び『今、何が問題か』」を読む」を全文転載する> 『アステイオン』94号の特集は「再び『今、何が問題か』」である。「再び」というのは、2012年にも「今、何が問題か」という特集を組んでいるからだ。ほぼ10年を経て同じ趣旨の特集を組むのは編集委員が入れ替わったことによる。 先立つ10年の編集委員は、委員長の田所昌幸以下、張競、池内恵、苅部直、細谷雄一、待鳥聡史の計6人。このうち、田所、張を除く4人が、岡本隆司、武田徹、土居丈朗、中西寛に入れ替わった。新旧ともに錚々たるメンバーだが、その全員すなわち「新」編集委員6人プラス「旧」編集委員4人の計10人が寄稿している。 みな、自身の立場から見て「今、何が問題か」を問うていて、読み応えがある。全
2001年10月、青塚慎一さんは家族4人で茨城県神栖市木崎の一戸建て借家に引っ越してきた。住宅街はサッカーJ1の鹿島アントラーズの本拠地から車で約30分、周囲には畑も残る。しかし、転居直後から全員の体に原因不明の変調が現れ始めた。手の震えやめまい、ふらつきなどの神経症状が止まらない。特にひどかったのはまだ乳児だった長男の琉時さん。母の美幸さんによると、頻繁にけいれんに襲われ、医師から「一生歩けないかもしれない」と通告された。21歳になった今も、精神の発達の遅れなど重い障害が残る。 国は最終的に、旧日本軍の毒ガス兵器の原料が原因と判断。半世紀以上も前につくられたものが、21世紀になって若者の未来への自立を奪った。しかも毒ガス兵器の爪痕はこの地域だけにとどまらなかった。(共同通信=辰巳知二)
オランダには、いまも日本人から受けた心の傷みに苦しむ人たちがいる。80年前の1942年、植民地支配していたインドネシアで日本軍の侵攻にあい、抑留所に収容された7万人あまりの女性と子供たちだ。食料や薬の不足、そして日本兵による暴力。そんなトラウマを持つ存命者の1人が、ティネケ・ファンデル・ウーデ・ズルヴァー(96)だ。インドネシアに侵攻した元日本兵の父を持つ私は、オランダに彼女を訪ねた。ティネケが語った憎しみを癒やすためにできることとは(敬称略)。 【元日本兵の父が語ったインドネシアでの戦争】 私の父、小西繁男がインドネシアでの戦争体験を初めて語り始めたのは、80歳になってからだ。 父が軍隊に召集されたのは、大学生の時だった。自由な学生生活を満喫していたが、1年半の厳しい軍事教練と精神教育を終えると、「我々が戦場で死んでも、忠孝という精神に安心立命を見出すことのできる日本人は、実に幸いにして
公使館領事官補だった堀口九万一の126年前の8通の手紙 日系米国人が名古屋の古物市場で入手 「自分たちが王妃を殺害した…進入は私の担当任務」 日本の外交官が、明成皇后(閔妃)殺害事件に自分が加担したと知人に打ち明けた126年前の手紙が発見された。明成皇后の死に日本の現職の外交官が直接加担していたことを示す貴重な資料だ。 朝鮮公使館の領事官補だった堀口九万一(1865~1945)は、明成皇后殺害翌日の1895年10月9日に新潟県の友人に送った手紙に「自分たちが王妃を殺害した」とし、明成皇后殺害事件の経緯を詳しく記していた。日本の朝日新聞が16日付で報じた。堀口はこの手紙で「進入は予の担当たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と記している。彼は「存外容易にして、却ってあっけに取られ候」と感想も記している。彼は、日本の外交官、警察、民間人などからなる明成皇后殺害の実行グループ
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