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フィリピンに関するcustardtarteのブックマーク (11)

  • 「コロナで何人殺した?」 WHOが解任した葛西事務局長の問題発言とは

    <1年以上前に内部告発された日人幹部がようやく処分へ> 世界保健機構(WHO=部スイス・ジュネーブ)は3月8日、フィリピン・マニラにある西太平洋事務局の日人事務局長、葛西健氏を解任したことを明らかにした。WHOによると特定の人種を差別する発言や内部の秘密情報を母国である日に漏洩した疑いがあるとの情報が同事務局の現役や退職したスタッフなどから2022年1月以降寄せられていた。その後WHOはそのような情報の提供を受けて「規則違反の疑いがある」として2022年8月に葛西氏を休職扱いとすると同時に格的な調査を開始していた。 その調査結果や西太平洋事務局スタッフなどへの聞き取りから内部告発に基づく情報は事実関係が濃厚であるとしてWHOの規定に基づきて解任処分となったものだが、葛西氏はこれまでメディアの取材に「差別発言や秘密漏洩は事実ではない」と疑惑を全面否定していた。 WHOは8日、ホーム

    「コロナで何人殺した?」 WHOが解任した葛西事務局長の問題発言とは
  • 小野田寛郎を英雄扱いしてきただけでも大概だが、今度はその嘘を世界にまで広めるのか? - 読む・考える・書く

    映画『ONODA』がカンヌでスタンディングオベーションという惨事 ゴーストライターが暴露せざるを得なかったほどひどい手記のデタラメ 小野田はとっくに戦争が終わったことを知っていた 小野田はジャングルに潜んで何をしていたのか? 小野田はなぜ津田氏のルバング島行きを嫌がったのか フィリピンで戦った英雄は断じて小野田などではない 映画『ONODA』がカンヌでスタンディングオベーションという惨事 1974年3月、フィリピン・ルバング島のジャングルに30年潜伏していた小野田寛郎元陸軍少尉が帰国した際の歓迎ぶりはすさまじいものだった。 政府が彼のために日航特別機を用意したことから始まり、機が羽田に着陸する30分前からNHKは特別番組の実況中継を開始、小野田が降りるタラップの下には百人近い政府関係者が並び、またそれ以上の数の報道陣がカメラの放列を敷いていた。 まるで戦勝国の凱旋将軍が帰国したかのような扱

    小野田寛郎を英雄扱いしてきただけでも大概だが、今度はその嘘を世界にまで広めるのか? - 読む・考える・書く
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    東南アジアで日は何をしたのか 林 博史 この原稿は、高校日史教科書の出版社でもあった自由書房が高校教員や高校生向けに出していた月刊誌『時事教養』に2年間20回で連載を頼まれて書いたものです。ところが最初の1年間10回の連載が終わった時点で、『時事教養』が休刊(廃刊)になってしまったために、残りの10回分が宙に浮いてしまいました。ここに20回分全部を掲載します。毎回、短いコラムだったので参考文献も何も書いていません。ただこれがあったので『キーワード 日戦争犯罪』を書くときに役に立ちました。(10回分の掲載は、『時事教養』第692号、1994年4月~第701号、1995年2月)   1999.4.1 1 東南アジア侵攻から始まったアジア太平洋戦争 2 近代の日と東南アジア 3 マレーシア・シンガポール(上) 4 マレーシア・シンガポール(下) 5 インドシナ(ベトナム・ラオス・カン

  • 小野田寛郎さんはサイコパスだった: 日光かわず庵雑記帖 by たくき よしみつ

    フェイスブックの今日は何の日的な書き込みで、「57年前の今日(1959/03/15)、フィリピン、ルバング島の小野田寛郎少尉と小塚金七一等兵が日比合同捜査隊に発砲する」というのを目にした。 横井庄一さん、小野田寛郎さんの帰還はテレビで大々的に中継されていたから鮮明に覚えている。でも、小野田さんと一緒に潜伏していた日兵が複数いて、仲間は戦後だいぶ経ってから銃撃戦の中で死んで、小野田さんだけが戻って来たことは、記憶としては残っているけれど、詳細については知らないことが多いと気づいた。 そこで、実際はどういう経緯だったのか、調べてみることにした。 時系列でまとめると、 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に

    小野田寛郎さんはサイコパスだった: 日光かわず庵雑記帖 by たくき よしみつ
  • レイテ島と山梨県甲府市の日本住血吸虫 | 探検コム

    軍に追い詰められ、フィリピンから脱出したマッカーサーが残した有名な言葉が “I shall return.” で、訳せば「絶対に戻ってくる」。 その言葉通り、フィリピンのレイテ島にマッカーサーが再上陸したのは、1944年10月20日のことでした。 この日の前日、日軍は「捷一号作戦」を発令しており、米軍に対し、徹底抗戦することが決まっていました。こうして、レイテ島は「天王山の戦い」となり、大激戦が始まります。 12月28日、日軍は島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移します。 1945年1月1日、カンギポット周辺にいた1万人近い日兵は、米の飯を炊いて正月を祝いました。いかにも平和的な光景ですが、実態は大きく異なります。 レイテ島の戦いを描いた大岡昇平の『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日兵は8万4006人います。しかし、生還できた人間はわずか2500名。 この時点で

  • フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実 | AERA dot. (アエラドット)

    レイテ島で日軍の揚陸拠点だったオルモックに残る、通称コンクリートハウス。独立歩兵第12連隊第3大隊の約250人が立てこもったが、米軍の攻撃で全滅した(撮影/編集部・大平誠) フィリピン・セブ島で、収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取り残したとみられる骨の数々。焼いた骨からは、鑑定に資するDNAは抽出できないという(撮影/編集部・大平誠) 最後にレイテ島に上陸し、消息が最も謎に包まれている第68旅団の遺族。何度も現地を踏査し、遺骨収集の困難さを知るほど、慰霊巡拝に軸足を移す人も多い(撮影/編集部・大平誠) 日人の遺骨は一体もない──。前代未聞の不祥事に揺れる厚労省の海外戦没者の遺骨収集事業。昨年8月に公開された鑑定結果からは、同省が隠蔽を試みた事実が浮かびあがる。遺骨収集は何のために行うのか。9年前、遺骨混入疑惑を最初に報じた記者が取材した。 【写真】収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取

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  • マニラ市街戦──その真実と記憶──(Web版)

    Unofficial Site of NAKANO Satoshi, Ph.D., Professor of History at Hitotsubashi University Graduate School of Social Sciences / 中野聡(一橋大学教員)から、あれやこれやの四方山(よもやま)話です。 2016年1月26日、天皇陛下はフィリピン共和国への親善訪問に出発される際の「おことば」で、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と述べられました。マニラ市街戦とはなんだったのでしょうか?以下、その概要とマニラ戦をめぐる記憶の問題について、2007年前

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  • 「日本の父」に会いたいと願う子どもたち。「フィリピンの母」の苦悩と誇り|ニッポン複雑紀行

    「フィリピンパブ」の歴史から飛行機で4~5時間の距離にあるフィリピン。この国と日歴史は長い。 豊臣秀吉の時代には両国の間で交易が行われ、江戸時代にはマニラに日人町が形成されていたといわれる。明治時代から戦前にかけて、日政府の主導で日人移民が入植し、マニラ麻の栽培に従事した。戦時中は日軍がフィリピンを占領し、甚大な被害をもたらした。 フィリピン・マニラ市内。経済格差が大きく高層住宅貧困地区が隣り合う。 そして戦後、外国人労働者の受け入れを公に認めてこなかった日が事実上いち早く門戸を開けたのは「エンターテイナー」とよばれるフィリピン人女性たちに対してだった。 高度経済成長を遂げた日は1980年代、歓楽街での人手不足から、フィリピン人の女性たちに対して「興行ビザ」の発給を始めた。興行ビザは芸能やスポーツなどのために来日する人に与えられるビザだ。 女性たちはフィリピンでオー

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  • 戦没者遺骨 “日本人の遺骨なし” 鑑定結果を公表せず 厚労省 | NHKニュース

    太平洋戦争で戦死した日兵の遺骨としてフィリピンで収集され、現地に保管されていた遺骨について、厚生労働省から7年前にDNA鑑定を委託された2人の専門家が「日人と見られる遺骨は1つもなかった」とする鑑定結果をまとめていたことがNHKの取材でわかりました。この鑑定をした専門家の1人は「多くのフィリピン人の遺骨が日兵のものとして帰還した可能性がある」と指摘していますが、厚生労働省はこの鑑定結果を現在まで公表していません。 厚生労働省は現地で保管されていた合わせて311の遺骨を3つに分けて、3人の専門家にDNA鑑定を委託し、平成23年10月、このうち1人が行った鑑定結果を基に「フィリピン人と見られる遺骨が半数近く混入していたが、日人と見られる遺骨も含まれていた」などとする検証報告書を公表しました。 しかし、報告書の公表後、残りの2人の専門家が「判別できた遺骨のほとんどがフィリピン人と見られ、

    戦没者遺骨 “日本人の遺骨なし” 鑑定結果を公表せず 厚労省 | NHKニュース
  • 小野田さん帰国 42年後の真実|NHK NEWS WEB

    太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日に帰国したときは、日中が沸き立ちました。 小野田さんの帰国を巡って、日とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者) 残留日兵 小野田寛郎さん 7月23日、日とフィリピンは、国交正常化から60年を迎えました。太平洋戦争末期、最も過酷な戦場の1つとなったフィリピン。日人50万人余りが死亡、100万人を超すフィリピン人が犠牲になったと言われています。 当時22歳だった小野田寛郎少尉は戦争が終わったことを信じず、3人の仲間とともに、フィリピンのジ

    小野田さん帰国 42年後の真実|NHK NEWS WEB
  • まるでギャング映画、比大統領 麻薬王とされる人物と面談 (AFP=時事) - Yahoo!ニュース

    【AFP=時事】フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は15日、南部ダバオ(Davao)の麻薬取締局で、同国の麻薬王の一人と疑われる実業家のピーター・リム(Peter Lim)氏と面談し、面と向かって殺すぞと脅した。 【関連写真】面談中の大統領とリム氏  犯罪に容赦しない姿勢を示しているドゥテルテ大統領は、このギャング映画さながらの奇妙な面談で「処刑するよ……始末するよ」と発言し、リム氏に麻薬から手を引くよう警告した。 フィリピン政府は16日、リム氏を「フィリピンで違法な麻薬密売に手を染める3人の麻薬王の一人」とするタイトルを付けた面談の映像を動画共有サイト「ユーチューブ(YouTube)」で公開した。 一方のリム氏は、自分は大統領が今月7日に行った国営テレビの演説でやり玉に挙げられた中国系フィリピン人で麻薬密売人のピーター・リムとは別人だと主張した。

    まるでギャング映画、比大統領 麻薬王とされる人物と面談 (AFP=時事) - Yahoo!ニュース
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