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ブックマーク / cabanon.exblog.jp (21)

  • ディーター・ラムス@建仁寺 | 藤崎圭一郎の雑思録

    京都へディーター・ラムスの講演会に行ってきました。 講演会は、9月23日〜10月23日、建仁寺で開催されている『ディーター・ラムス Less but better展』の初日に行われました。 京都の最古の禅寺で、今年73歳のドイツ現代デザインのマイスターがどんな展示インスタレーションを行うのか? どんな話をしてくれるのか? 期待は募るばかりです。 ラムスの仕事といえばブラウン社のプロダクトです。ラムスは1955年にブラウン社に入社して1997年退社するまでオーディオ、テレビ、調理器具、シェーバーなど数々の製品をデザインしました。現在も現役。最近はオフィス家具などのデザインをしています。脚が悪くて杖をついていたのですが、創造への意欲が体に漲っていました。その姿は導師です。 建仁寺は日に南宋の茶を伝え、禅を広めた栄西が開山した臨済宗建仁寺派大山。祇園の花街に隣接。花見小路通りの南端に位置しま

    ディーター・ラムス@建仁寺 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • ココカラハジマル : 私家版「雑誌原稿書き方_全111条」

    稿の改訂版をnoteにアップしています。項目別に整理しているので見やすいです。下のリンクで最新版をご覧ください https://note.com/cabanon/n/n379c454aad4f 昨日の【雑誌原稿書き方基礎講座】で使ったKeynoteに書いていたことを改変・再編集してアップします。全111条。僕が個人的に積み重ねてきたノウハウです。ライターだけでなく編集者としての心得も混じっています。仕事をしてきた出版社が違えば、このノウハウも違うものになったでしょう。だからあくまでも私家版です。デザイナーや建築家やアーティストや工学研究者の取材記事執筆を前提にした話であることをご了承ください。 *アップデート情報 ・全110条を全111条にしたり、第74条を追加して他を統合したりなど、こそこそ修正しているので、3/5にアップしたものとは少し変わっています(3/8記) ・95条の説明に奥義

    ココカラハジマル : 私家版「雑誌原稿書き方_全111条」
  • デザイン思考の講義資料 | 藤崎圭一郎の雑思録

    藝大のデザイン概説で「デザイン思考」について語った講義で使用したスライド(Keynoteで制作したものをJPEG化)の抜粋版をアップします。Tim Brownの著書『デザイン思考が世界を変える』を噛み砕いて、「つくることの得意な」美大生向きに作りました。このブログではアニメが使えないので、多少わかりづらいところがありますがご容赦を。そのうち補足の言葉を付け加えていくつもりです。

    デザイン思考の講義資料 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 冗長美論・前編 | 藤崎圭一郎の雑思録

    唐突ですが、僕の最近の大きなテーマ「冗長美」に関する論考をアップします。長すぎて字数オーバーになって投稿できないので、2つに分けました。この記事の下に、後編があります。 実用性を追求し徹底的に無駄を省いたシンプルな形に美が宿るという機能美神話はかなりの部分、幻想にすぎない。耐震構造偽装されたマンションは、震度5の地震で崩壊する危険性があったとしても、そのことはまったく外観に影響を与えていない。免震マンションが頑強に見えるわけでもなく、姉歯秀次元建築士が構造設計したマンションがか細く見えることもない。姉歯元建築士が「だってレス・イズ・モアだから」って語ったら、モダニズムの神様はどんな思いをしただろうか。 「わしゃあそんなつもりでああ言ったんじゃない」。ミース・ファン・デル・ローエならギロリと睨みを利かせて語る。「バルセロナパビリオンやトゥーゲンハット邸に使ってる柱は知っとるか。ピッカピカのク

    冗長美論・前編 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • モダニズムについて | 藤崎圭一郎の雑思録

    モダニズムはいまだに世界を覆いつづけている。モダニズムといえば、芸術史や建築史においては、主に19世紀後半から20世紀中盤にかけて、進歩史観や合理主義や科学技術の進展を背景に、芸術家や建築家やデザイナーを、伝統的な方法論にとらわれない新しい造形・建築・社会の構築へと突き動かした運動だが、モダニズムは単なる文化エリートたちの運動ではなかった。20世紀中盤までのモダニズムは初期モダニズムと呼んだほうがいいだろう。 1970年代〜1990年代初頭に世界を覆った建築デザイン界のポストモダンは、確かに初期モダニズムの次をめざしたが、それらは簡単にモダニズムのつくりあげた世界に消費され飽きられて、ポストモダンという名のデザインブームに終わってしまった。しかし、このポストモダンデザインの登場と衰退は、モダニズムの質を示唆すること結果になった。モダニズムは乗り越えられるものではなく、質的に次から次へと

    モダニズムについて | 藤崎圭一郎の雑思録
  • モダニズムという怪物 | 藤崎圭一郎の雑思録

    Yanagimotoさんから再びコメントをいただきました。ありがとうございます。僕も長文で返事します。 >モダニズムはもっと自由で人間的であったのだと思います。戦後、自分たちは自由であると錯覚した頃からモダニズムのボタンはかけ違えられてしまったのかもしれません。というコメントについて考えたことです。 僕のモダニズム観を書きます。 僕はモダニズムを、自我の確立だの、科学と合理主義に基づいた社会の建設だの、標準化だの、普遍化だの、機能主義だの、鉄とコンクリートとガラスの建築だの、伝統の拒絶だのとは捉えていません。モダニズムの基軸となるのは理性でなく欲望です。 たしかに20世紀初頭の人たちがめざした近代化とは、社会が個人を基盤に形成され、ひとりひとりが高い人間性を発揮して暮らせる社会を作ることでした。ひとりひとりが高い人間性を発揮するには自由と平等が必要です。そのために合理的精神に基づいた社会シ

    モダニズムという怪物 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • モダニズム ・ ポストモダニズム | 藤崎圭一郎の雑思録

    ---------(○-ω-)ノ【 Fujipedia 】ヽ(-ω-●)-------- 【モダニズム】 「今。ここ」の特殊化。「今。ここ」を世界の中心のゼロ地点とみなし、未来と過去を分断。「今。ここ」という中心から時空間を細かく分節化し、世界の意味や価値を体系化する動き。 【ポストモダニズム】 モダニズムが内包するモダニズムを再構築する動き。モダニズムが世界を際限なく細かく分節化した結果、歴史の連続性が崩れだす。同時に科学がミクロの単位で世界を記述するようになると、「今。ここ」が人間の体感からずれていく。 たとえば、0.1秒後の未来を予知できても、生身の人間には何も役に立たない。人間の意識の中では、今から0.1秒前も後も現在であり、体感として0.1秒単位では未来と過去の区別はない。しかしテクノロジーの世界では0.1秒後の世界ははっきり未来である。人間の筋肉の電位差を読み取れば、0.1秒後

    モダニズム ・ ポストモダニズム | 藤崎圭一郎の雑思録
  • チョコレート展とSENSEWARE展 | 藤崎圭一郎の雑思録

    展覧会と展示会。同じ「Exhibition」でも、どちらの言葉を使うか、原稿を書く時に使い分けるようにしています。21_21 DESIGN SIGHT の深澤直人ディレクションのChocolate展(7/29まで)と、スパイラルの原研哉ディレクションのSENSEWARE展(4/29まで)。僕の書き分けからすれば、前者は「展覧会」で、後者は「展示会」です。Chocolate展もSENSEWARE展も、ディレクターが「ひとつのテーマ」を定め、「参加者」を選び、彼らに「作品」をつくってもらうグループ展であることは全く同じですが、質的な違いがあります。 展示会はプロモーションが目的です。TOKYO FIBER'07 SENSEWARE(センスウェア)展は、新しいハイテク繊維や知られざるユニークな繊維素材を世の中に知らしめるための「Exhibition」です。デザインの力で日の繊維業界のポテンシ

    チョコレート展とSENSEWARE展 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 二項対立(2)逆説 | 藤崎圭一郎の雑思録

    3つ前の投稿の二項対立の話の続きです。 ******* 二項対立にはさまざまな種類がある。二項対立というと、男と女、表と裏、理性と感情、愛と憎しみ、デジタルとアナログように、ほぼ対等なものどうしが対立する関係だと思いがちだが、2つの項がそのように対称性を持って対立している関係はむしろ珍しい。二項対立には、著しく非対称なものや、来対立関係が成立しないものもある。二項対立は対称性でなく対照性を明らかにするものだ。そのため任意に二項が決められ、やや強引に対立関係に置かれるケースも多い。 【有と無の二項対立】 非対称の極端なケースとして「有と無」型の二項対立がある。「無」とは存在しないものだから、来、2つを比べることもできないし対立させることすらできない。「有と無」「在と不在」といった対立は、ただ概念上の対立だけが存在する。たとえば東洋思想のように「無」や「空」はひとつの概念として捉えれば、有

    二項対立(2)逆説 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 第三項 | 藤崎圭一郎の雑思録

    昨晩(というか今朝早く)、デザイン概論用のパワポをつくっていて、二項対立に、第三項を設定し、そこを徹底的に掘り下げることが、現代デザインにとっていかにアクチュアルな問題かを再確認。アウフヘーヴェン不要の三項目です。 でも、学生の反応は薄かったなあ。パワポを使って机に座って講師が一方的にしゃべってるだけですから、当然眠くもなります。 二項対立を考えると問題設定しやすいよ、くらいの話で止めとけば、わりやすいのでしょう。でも、それじゃあ当たり前の話だし。モダニズムという用語を使わないポストモダニズムの説明への試みだったりするわけです。もっともっとリファインさせなくちゃいけません。

    第三項 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 二項対立(1) | 藤崎圭一郎の雑思録

    「デザインをいかに言葉で表現するか」というのが僕の大きなテーマだ。言い方を変えると「デザインにおける“言葉の力”の探究」となる。 物書きとしての経験からの分析だが、デザインや建築の特長を読みとり言葉で表現するには大まかに言って2つの方法がある。「二項対立」と「類推」だ。 二項対立による叙述は、光と影、人工と自然、中心と周縁、見えるものと見えざるもの、理性と感情、合理主義と神秘主義、対称と非対称など、相反する項目の対立をデザインの中に見つけ出す方法だ。デザイナーは相反する項目の、どちらかを選択したのか? 止揚したのか(つまり、ひとつ次元の高い観点から統合的に問題解決を図っているのか)? 共生を考えているか? 共生の場合、優先しているのは混ぜ合うことか、バランスか、お互いの違いを強調してコントラストを見せているのか?  二項対立による叙述は、対立を見つけ、それがどう解決されたかを言葉によって表

    二項対立(1) | 藤崎圭一郎の雑思録
  • デザインとアートの方法論について | 藤崎圭一郎の雑思録

    デザイン思考やスペキュラティブデザインといった方法論がいかに現代アートの方法論と重なり合うか──。以下の重なり合う方法論を見ていただきたい。依頼主がいるからデザインだとか、自由な自己表現がアートだとか、単純に切り分けられる時代ではなくなっています。 1)リサーチや観察を重ねて、見えない文脈を読みとり、やるべき課題を選択する。 2)関わることで問題を引き出す→たとえば、地域社会を巻き込むプロジェクト型。エスノグラフィの方法論の導入。 3)「作り手と受け手」「作品と人」「道具・空間・環境・人」の関係性(インタクラション)を問い直す。 4)従来の受け手だった人を作品制作プロセスに積極的に巻き込む。 5)スピーディーなプロトタイピングで、多くの人とつくるプロセスを共有し検証を繰り返す。 →ちなみに、つくるプロセスの可視化や共有化は、逆に「その人」しか出来ない、交換不能の領域を浮き立たせる。結果的に

    デザインとアートの方法論について | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 遊び心(6)大地の戯れ、遊びの親和力 | 藤崎圭一郎の雑思録

    一昨年の11月の終わりのこと。初北海道。日帰り。CasaBRUTUSのイサム・ノグチ特集で原稿を書くため、どうしてもノグチが基設計したモエレ沼公園を見たくなって、締め切りが迫っていたのにもかかわらず、思い立ったように自腹を切ってモエレに行ってきた時に撮ったものだ。 モエレ沼公園にはプレイマウンテンという人工の山がある。角度によって巨大なピラミッド見えたり、なだらかな丘に見える。山の頂には土で盛った小さなピラミッドがある。ピラミッドの上にあるもうひとつのピラミッド。その最頂部には祭壇のような四角い石壇が載っている。プレイマウンテンといっても遊具が置かれているわけではない。ただ山に登るだけ。頂上へ至る道はゆるやかな傾斜で、犬を散歩させている人たちもいる。 下から眺めると、頂上に立つ人たちが豆粒のように見える。道は大きな弧を描いているので、歩を進めるたびに、眼前の光景は変わる。しかし頂上が視界

    遊び心(6)大地の戯れ、遊びの親和力 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • ボイス夜話を終えて | 藤崎圭一郎の雑思録

    今晩はタカヒラミクさんと、ヨーゼフ・ボイス夜話でした。そんでもって、家に帰ってきて、ひとりダメだし会です。語るべきことを言えなかったんで……。 ボイスを通じて、『アイオーン』(C.G.ユング)と『中世の秋』(ホイジンカ)がつながります。それが僕の卒論でした。心の底にあったのはP.K.ディックの『ヴァリス』のピンク色の光です。 1995年(僕は、日ではこの年から他よりちょっと早く21世紀が始まったと思っています)、エヴァンゲリオンとオウム事件を経て、人類の覚醒と進化への夢は一時的に挫折します。 夢のような出来事が起きたのは、2001年の9.11です。その光景は映画の中でしかありえないものでした。 荒唐無稽の夢の終わりは、未来をつくる夢のはじまりです。いま僕の中では、ボイスは『非線形科学』(蔵由紀)と『人間の条件』(ハンナ・アレント)につながっています。 ホイヘンスの振り子時計の同期と、ユ

    ボイス夜話を終えて | 藤崎圭一郎の雑思録
  • 名無しの海 | 藤崎圭一郎の雑思録

    なぜ、名無しの模倣者たちは模倣を嫌うのか。 匿名のネットの住民たちは、どんなに必死に書き込みをしようとも、一人ひとりにオリジナリティがないことを彼ら・彼女ら自身が一番認識しているのではないか。 他の匿名者の書き込みを加速させる意見のみにすり寄っていくだけ。敵を叩くためなら誹謗中傷やコピペはやり放題。正義をかざして正義じゃないことをやっていることも認識している。 彼ら・彼女らはただそういうカタチでしか世に意見を言えない。そういうやり方でしか世の中を動かすドライブ感を得られない。名無しの無法の模倣者であることから脱け出すことができない。居心地のよいその立場から脱け出す必要もない。 それを自覚しているからこそ、名無しの模倣者たちは、有名人や権威のある組織に属する者が、自分たちと同じ無法な模倣というで方法で金儲けしたりスターになっていくことを許さない。 模倣をするなら私たち模倣者の仲間になれ、パク

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  • ミニマルと反復 | 藤崎圭一郎の雑思録

    日、アサビで「シンプリシティ」についての講義。 即興でしゃべっているので、うまく語り切れなかったことがいくつかあった。その中のひとつ、「反復」について、98年にCasaBRUTUSに書いた短文をざっくり加筆修整して、頭を整理し直してみた。なんか文体がCasaのまんまだけど、ま、いっか。 ******** 【Repetition】 反復はミニマムやシンプリシティの極意のひとつです。 ほら、桜は毎年決まった時期に咲きますよね。満開になった桜は、私たちに「繰り返し」の中にこそ自然の豊かさがあることを語りかけます。スティーヴ・ライヒのミニマルミュージックが心地よいのは、単純な繰り返しのうちにゆったりとした変容が生じる自然の摂理を、音楽の上に写し取っているからでしょう。 反復を効果的に表現するためには、無駄な要素を削ぎ落とす必要があります。 ミニマルアートの代表的存在ドナルド・ジャッドは、機能や意

    ミニマルと反復 | 藤崎圭一郎の雑思録
  • セミナーの後に思ったこと | 藤崎圭一郎の雑思録

    トーク二連荘でした。金曜日は金沢美術工芸大学で講義、土曜日は秋田道夫さんとのセミナー。金美では「攻殻機動隊とユニバーサルデザイン」というテーマ。攻殻を映画もTVも全部観たという学生と講義のあと、けっこう熱く話し込んだのですが、その学生によると何を言っているのか分からないと思った人もいたとのこと。話を詰め込みすぎたかも。 そして昨日は秋田さんとのトーク。対談とは書きません。「秋田道夫」というデザイナーの根っこの部分を引き出すのが僕の役目でしたから。ほどよく引き出せたと思っています。 秋田さんのことばには、デザイナーとしての自信が漲っていました。 見えない何かが見えている。それをかたちにできる方法を会得している──そんな自信です。 秋田さんが求めるかたちはshapeではなく来的な意味でのformです。「形態」でなく、アリストテレスの言う「形相」という意味での「フォルム」です。システムであり、

    セミナーの後に思ったこと | 藤崎圭一郎の雑思録
  • モエレで起きたちょっとした奇跡のお話 | 藤崎圭一郎の雑思録

  • テンセグリティの作り方 How to make a Tensegrity : 藤崎圭一郎の雑思録

    テンセグリティ (Tensegrity) は、tensional と integrity の造語。引っ張る力と圧縮する力によって均衡を保たれる構造。バックミンスター・フラーの指導を受ける学生だった、ケネス・スネルソンが考案したものです。投げると弾むくらい構造は安定しています。が、輪ゴムを一か所外すと途端にバラバラになります。 いろいろなバリエーションがありますが、今回制作してもらったのは、輪ゴムと木の棒で作る最も単純なものです。エレガントな構造を自分の手で体験してもらうのが制作の目的です。 東急ハンズで買ってきたラワン材とバルサ材の2種類の丸棒で使いましたが、バルサ(6mm径)のほうが加工しやすく、見た目もいいようです。糸鋸を使いました。カッターでは両端に溝を入れるのが難しい。木を切るときに怪我をした学生がいました。軍手を用意すればよかったですね。申し訳ありませんでした。 この講義のために

    テンセグリティの作り方 How to make a Tensegrity : 藤崎圭一郎の雑思録
  • デザインジャーナリズム | 藤崎圭一郎の雑思録

    浩市さんのブログmetabolismを拝見して、やや反省。5.16のshop btfでの岡田栄造さんとのトーク、僕的には気持ちよく話せたのですが、デザイン批評は可能か?っていう話をもっと突っ込んだほうがよかったかもしれませんね。 最近こんなことがありました。 某雑誌から拙著『デザインするな』の書評記事のゲラがPDFで送られてきました。事前に著者にチェックしてほしいとのこと。「ゲラは読みません。チェックしません。そんなことをしたら書評の意味がない」とかなんとか書いて返信しました。著者インタビューを受けてコメント部分をチェックしてほしいというのならチェックします。しかし評論の事前チェックは評者に失礼。を世に問うた以上、他者から批判は受け入れる覚悟はできています。その批評がたとえどんな理不尽なものであってもです。 出版後のいさかいを避けるため、専門誌でも原稿の事前チェックが当たり前になりつ

    デザインジャーナリズム | 藤崎圭一郎の雑思録