エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
諸説ある「方広寺鐘銘事件」は徳川家康の一方的ないちゃもんではなかった? 孫娘を危険な目に遭わせてまで、家康はなぜ「大坂の陣」に踏み切ったのか | JBpress (ジェイビープレス)
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
諸説ある「方広寺鐘銘事件」は徳川家康の一方的ないちゃもんではなかった? 孫娘を危険な目に遭わせてまで、家康はなぜ「大坂の陣」に踏み切ったのか | JBpress (ジェイビープレス)
NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第46回「... NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第46回「大坂の陣」では、豊臣家が再建した方広寺大仏殿の鐘に刻まれた文字が物議をかもす。家康はついに14年ぶりの大戦に踏み切り、豊臣家と直接対決することになるが……。今回の見どころについて、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部) 二度の災害に見舞われた「京の大仏」 どうにかして豊臣家から名実ともに権力を奪わなければならない。 関ヶ原の合戦に勝利して自ら征夷大将軍となり、さらに、将軍の地位を息子の秀忠に譲ってもなお、徳川家康の心は穏やかではなかったようだ。豊臣家を滅亡させるべく、家康が注目したのが「方広寺の鐘」だったという。 方広寺に大仏殿を建立しようと考えたのは、豊臣秀吉だ。秀吉が「奈良の大仏をも上回る規模の大仏と大仏殿を京の東山に建てよう」