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野心のためには平気で事実を曲げる…天下人の豊臣秀吉に対し、徳川家康が堂々と主張したウソの中身 将来、自分こそが幕府を開くと確信していた
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野心のためには平気で事実を曲げる…天下人の豊臣秀吉に対し、徳川家康が堂々と主張したウソの中身 将来、自分こそが幕府を開くと確信していた
もともとは小豪族の長男で、幼名は竹千代 徳川家康は、いったいどの時点から将来自分が幕府を開くことを... もともとは小豪族の長男で、幼名は竹千代 徳川家康は、いったいどの時点から将来自分が幕府を開くことを意識したのだろうか。私はかなり早い段階で高い志を立てていたのではないかと考えている。その根拠となるのは改名と改姓だ。 家康は西三河(愛知県中部)の小豪族で岡崎城主の松平広忠の長男として生まれた。幼名は竹千代。 松平家の領国は東に今川家、西に織田家という有力な戦国大名に囲まれており、いつどちらに侵略、もしくは吸収されてもおかしくない危機にさらされていた。 このため竹千代は6歳から織田家の人質となり、8歳の時に父・広忠が家臣に暗殺された後は今川家の人質となった。そして14歳の時に今川家で元服し、当主の今川義元の元の字を与えられて、松平元信と名乗るようになる。 祖父は味方に殺されて死んだ非業の英雄 ちなみに、人質というと、「虐げられていた」というイメージを覚えるかもしれないがこの場合はそうではない。