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思い通りにならない祝福された人生
ここ何回か信仰をめぐって書いて来て、自分自身への言い聞かせであることを改めて覚える。探求、瞑想を... ここ何回か信仰をめぐって書いて来て、自分自身への言い聞かせであることを改めて覚える。探求、瞑想を怠ると、生きることの苦しさが強調されて矢も盾もたまらず再び内省に至る、そういうことの繰り返しだ。そしてそのたびに神の顔を見るのである。 昨日の記事のFBへのわが友アキンさんの書きこみに導かれて、ぼくはぼくのことを書いた。 聖書の言葉には、苦難が神につなげてくれるという、受難を喜ぶ表現がよく出てくる。「貧しきものは幸いである」などはネガティブに聞こえるものの、苦そのものの中から幸が咲く構造を示している。 苦と楽の対立項がここではひっくり返る。こことは、神の視点だ。人が教えこまれ、信じてきた生きる意味は、神との出会いによって、まったく新しい視点を付与される。 これまで「大きな勘違い」をしてきたのだ。キリスト教ではそれを「罪」という。翻訳の誤りで、まるで生まれもった罪人であるかのように言われる原罪も、