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第9回 国語とジャーナリズム<前編> | 晶文社スクラップブック
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第9回 国語とジャーナリズム<前編> | 晶文社スクラップブック
この連載では日本語で展開されるジャーナリズムについて、日本語という言語がジャーナリズムという営為... この連載では日本語で展開されるジャーナリズムについて、日本語という言語がジャーナリズムという営為の可能性と限界にいかに影響するのかという視点で考察してきた。 今回はその思考の方向性を逆転させてみたい。つまりジャーナリズムは日本語にいかに影響を与えたか。さらに言えばジャーナリズムは日本語をいかに生成したか。 そう書くと日本語は昔から日本語であり、近代社会の産物であるジャーナリズムがその生成にかかわることなどありえないと異議申し立てをされそうだ。 そうした異議申し立ては、しかし、ひとつの事実を無視している。漢語を受け入れ、独自に発展させたという歴史があるが、それにしても日本独特の言葉が日本で使われていた歴史は確かに短いものではない。しかし一般に国語と言い換えられる日本語(それを日本語/国語と表記する)については、そうした日本語とは歴史が異なる。日本語/国語明治維新以後の「近代」の創造物なのだ。