![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/d70935cdb5bc4e992d46b22d92fc0b5c7e742f73/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fagora-web.jp%2Fcms%2Fwp-content%2Fuploads%2F2016%2F03%2F327cc991-s-1.jpg)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント2件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
憲法を憲法たらしめている力とは? --- 岩田 温
「存在」の起源を問う「哲学」 「存在者」ではなく、「存在」それ自身を問うことの重要性を説いたのが、... 「存在」の起源を問う「哲学」 「存在者」ではなく、「存在」それ自身を問うことの重要性を説いたのが、ハイデガーだった。 ハイデガーは云う。 「哲学するとは『なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか?」と問うことである」(ハイデガー『形而上学入門』22頁) ここでハイデガーがいう「存在者」とは、人間を指すだけではない。動物や昆虫と言った生物だけを指すのでもない。人間、動物、車、様々な形で「存在」する全てである。我々は個々の「存在者」について考える。すなわち、「人間とは何か」、「犬とは何か」、「車とは何か」。しかし、そのとき、我々は「存在」そのものを自明視している。ハイデガーは、個々の「存在者」を問うのではなく、「存在」そのものを問うことが「哲学」だと定義する。 だから、ハイデガーにとって、存在の意味づけを簡単に与えてくれる宗教に基いた「宗教哲学」などというものは存在しない
2016/02/25 リンク