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武田軍団を滅ぼした関東管領・滝川一益の生涯
本能寺の変の直前の織田家の宿老は、佐久間信盛などが追放され、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光... 本能寺の変の直前の織田家の宿老は、佐久間信盛などが追放され、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉でした。 しかし、光秀は消え、武田勝頼を天目山で滅ぼした滝川一益は、武田領だった上野国の西部と信濃の佐久郡をもらい、関東管領として上野国の厩橋(前橋)城で、北条氏に睨みを利かしておりましたが本能寺の変を聞いた北条軍が攻勢に出てきたので、神流川の戦いで敗れ、本領の伊勢長島城に逃げ帰られたばかりでした。 今回は『令和太閤記 寧々の戦国日記』から滝川一益について書いていることを簡単に紹介します。 ■ 清洲会議で、織田家の家督は信忠さまのお子で3歳の三法師さまが継がれ、とくに後見はおかずに、佐和山城主の堀秀政さまがおもり役になることになりました。三法師さまは、信孝さまが城主となられた岐阜城におられましたが、安土城へ移られるはずでございました。 ところが、堀秀政さまへの引き渡しと安土城への引越