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無理して無理して走り続けろ。努力だ、明日は来る。
いろいろな著書や成功者の話を聞けば聞くほど確信に近くなる。 日常とは葛藤であり、葛藤から拡張してゆ... いろいろな著書や成功者の話を聞けば聞くほど確信に近くなる。 日常とは葛藤であり、葛藤から拡張してゆくことでやっと日常が保てる。 走り続けてやっと後退しなくなる、というたとえではしっくり来なかった。 こうした見えない日常の膜というか外圧というか、そんなものを両手で必死に押しきれない人が鬱にかかったりする。 ところが鬱病者を見ると、人は大抵自身が日常を両手で押していることを義務と感じてしまう。 結果鬱は甘えだなんて言説が出てくる。恒常性を保つには運動が必要で、運動には心が必要だ。 心の動きが弱くなると膜が圧力を増してくる。 で、タイトルは真逆の概念を書いてる。 多分鬱の人はこういう心象を内面的に抱えているし、外からも言われている。 内面の風船は否応なく膨張し、外面の膜で呼吸もできなくなる。 恒常性を保つ運動は歩く動作に近い。 歩くことは基本誰にでもできるが、年をとるとその動作が特別だったことに
2020/07/31 リンク